企業の経営において、業績の変動は避けられない要素です。業績が悪化した局面で運転資金を確保するため、経営者が自身の役員報酬の支払いを一時的に留保する判断は、選択肢の一つとして考えられます。会計帳簿上は「未払役員報酬」として計上し、将来の業績回復時に支払うことを想定しているケースは少なくありません。
しかし、この未払いの役員報酬は、時間の経過とともにその性質を変化させていきます。法務上の「時効」という期限の到来や、税務上の想定外の課税リスクとして、会社および経営者個人に影響を及ぼす可能性があるためです。
当メディア『人生とポートフォリオ』では、税務を単なる手続きとしてではなく、人生全体の資産を最適化するための重要な構成要素として位置づけています。本記事では、「未払役員報酬」という論点について、法務と税務の二つの側面から整理し、内在するリスクと、将来に向けた具体的な対処法を検討します。
そもそも「未払役員報酬」とはどのような状態か
「未払役員報酬」とは、株主総会や取締役会で決定された役員報酬のうち、まだ役員個人に支払われていない金額を指します。会計上は、貸借対照表の負債の部に「未払金」や「未払役員報酬」といった勘定科目で計上されます。
多くの経営者にとっては、資金繰りが厳しい状況を乗り越えるための一つの手段かもしれません。金融機関からの融資が困難な状況で、自らの報酬を後回しにすることで、会社の資金繰りを維持する。その判断は、会社の存続を優先する意思の表れと見ることができます。
しかし、この会計上の処理と、法務・税務上の意味合いとの間には、認識しておくべき重要な相違点が存在します。経営者の感覚として「会社の内部留保」に近いものであったとしても、法的には「会社が役員個人に対して負っている債務」と解釈されます。そして、全ての債務には、返済の義務と期限が関係してきます。
「時効」という法務上の期限
放置された債務が最初に向き合うことになるのが、法務上の「時効」という問題です。この未払役員報酬の時効は、多くの場合、想定よりも早く到来する可能性があります。
役員報酬請求権の時効は原則5年
会社と役員の関係は、商法や会社法が適用される商取引の領域にあります。役員が会社に対して持つ報酬の請求権にも、消滅時効が存在します。
2020年4月1日に施行された改正民法により、債権の消滅時効のルールは統一され、原則として「権利を行使できることを知った時から5年間」または「権利を行使できる時から10年間」と定められました。役員報酬の場合、役員は支払期日を認識しているため、通常は支払期日から5年で時効が成立すると解釈されます。
時効が成立するということは、法的に、役員個人が会社に対して未払いの報酬を請求する権利を失うことを意味します。つまり、経営者が将来支払うことを想定していた報酬は、法的には受け取れなくなる可能性があるのです。
時効の完成を猶予・更新させる手続き
時効の進行を停止させるための法的な手続きは存在します。例えば、役員が会社に対して内容証明郵便で支払いを催告する、あるいは裁判上の請求を行うといった手段です。これにより、時効の完成が猶予されたり、時効期間がリセット(更新)されたりします。
しかし、これはあくまで法的な手続きであり、特にオーナー経営者の場合、自身が代表する会社に対して催告を行うという構図は、根本的な問題の解決にはなりません。むしろ、時効の問題に加えて、税務上のリスクを考慮することが重要になります。
時効だけではない、未払い報酬がもたらす税務上のリスク
未払役員報酬の問題は、単に「受け取る権利がなくなる」という法務上の話に留まりません。税務の世界では、時効の成立や債権の放棄が、想定外の課税という形で具体的な影響を及ぼす可能性があります。
会社側に発生する「債務免除益」課税のリスク
役員報酬請求権の時効が成立した、あるいは役員がその請求権を放棄したとします。この場合、会社側から見ると、支払うべきであった債務が消滅したことになります。
会計・税務上、この消滅した債務は「債務免除益」という利益として扱われ、他の収益と同様に法人税の課税対象となります。つまり、会社は実際に現金収入があったわけではないにもかかわらず、過去の未払額と同額の利益が認識され、それに対して法人税が課されるのです。
会社に十分な繰越欠損金があれば、この債務免除益と相殺できる可能性はあります。しかし、そうでない場合、業績が回復していない中で納税義務が発生し、資金繰りにさらに影響を与える事態も考えられます。
役員個人に関わる「給与所得」課税の問題
問題は会社側だけではありません。税法上、個人の所得税は、必ずしも金銭を受け取った時点(現金主義)で課税されるわけではありません。給与所得の場合、その収入を得る権利が確定した時点(権利確定主義)で課税対象と見なされるのが原則です。
これは、役員報酬が未払いであっても、株主総会などでその金額が確定した事業年度において、役員個人はその金額を給与所得として認識し、所得税・住民税の納税義務が発生している可能性があることを意味します。
実際に報酬を受け取っていないにもかかわらず、納税義務が生じるという状況は、税法上の原則から発生する可能性があるリスクの一つです。
「遅延損害金」という潜在的な債務
さらに、本来の支払期日から支払いが遅延しているため、役員は会社に対して年利数パーセントの遅延損害金を請求する権利も有しています。これもまた、会社の帳簿には明記されていない「潜在的な債務」と言えます。
この遅延損害金も、時効の成立や債権放棄の際には、債務免除益として認識される可能性があります。問題をそのままにしておくと、こうした潜在的な債務が膨らみ、問題の解決をより複雑にする要因となり得ます。
過去の計上項目を整理するための具体的な選択肢
では、この複雑な未払役員報酬という問題に、どのように対処すればよいのでしょうか。放置することはさらなる問題につながる可能性があるため、具体的な整理の方法を検討することが推奨されます。
選択肢1:計画的な支払いと損金算入
最も基本的な方法は、会社の資金繰りを慎重に見極めながら、未払報酬を計画的に支払っていくことです。支払った役員報酬は、原則として会社の損金に算入できます。
ただし、留意すべき点として「定期同額給与」のルールとの関係性があります。過去の未払分を支払うことが、税務調査などにおいて「臨時的な給与」と判断され、損金算入が認められないリスクも考えられます。支払いの方法や時期については、慎重な検討が求められます。
選択肢2:債権放棄と債務免除益の計上
会社の財務状況が著しく悪く、将来にわたっても支払いの見込みが立たない場合、役員が報酬請求権を放棄し、会社側で「債務免除益」として会計処理する方法も選択肢となります。
この場合、前述のとおり法人税の課税対象となりますが、会社に多額の繰越欠損金が残っていれば、それを債務免除益と相殺することで、税負担を発生させずに債務を整理できる可能性があります。これは、会社の貸借対照表を健全化し、再出発を図るための抜本的な手法と言えるでしょう。
専門家(税理士)への相談の重要性
これらの選択肢のどちらが最適かは、会社の財務状況、繰越欠損金の有無、そして経営者個人の状況によって大きく異なります。自己判断で処理を進めた結果、想定外の税負担が発生するケースも少なくありません。
未払役員報酬の問題を整理する際には、顧問税理士などの専門家に相談することが不可欠です。法務と税務の両面からリスクを分析し、会社の将来にとって最も影響の少ない、最適な解決策を共に模索することが重要です。
まとめ
業績の変動などに対応するために計上された未払役員報酬は、会計上の記録に留まらない意味合いを持ちます。法務上の時効の進行と、それに伴う税務上のリスクを内包しており、放置することで予期せぬ問題に発展する可能性があります。
特に、未払役員報酬の時効が成立した際に発生しうる「債務免除益」に対する法人税課税は、会社の財務に直接的な影響を与えかねません。また役員個人においても、実際に受領していない所得に対する課税の問題が生じる可能性があります。
この問題は、過去の経営判断から生じたものです。これを放置することは、将来の経営における選択肢を制約する一因となり得ます。当メディアが考察する「人生のポートフォリオ」という観点では、企業の財務状態は、経営者個人の時間や精神的な健全性にも影響を与えうる要素と考えられます。
まずは、自社の状況において未払役員報酬がどのようなリスク要因となっているかを正確に認識することが第一歩です。その上で、信頼できる専門家と連携し、過去の計上項目を適切に処理し、健全な財務基盤を再構築することが、企業と経営者自身の持続的な成長にとって重要なプロセスとなるでしょう。









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