サットヴァと申します。
「人生とポートフォリオ」というメディアで、生き方、働き方、お金、健康などについて書いています。
「人生とポートフォリオ」とは、終わりのある人生で、何を、どの割合で持つかを自分で決めることです。
子どもの頃に、人はいつか死に、この世からいなくなると知りました。それなら、いましていることに意味はあるのか。この問いに答えは出ていません。意味が与えられないなら、何を持って生きるかは自分で決めるしかありません。自分なりに腹落ちするまでに、数十年かかりました。このページは、その数十年で私が何を持ち、何を手放してきたかの記録です。
7歳の頃、身近な人の死を経験してから
問いの始まりは7歳の頃でした。身近な人が亡くなり、なぜこの世界が存在するのか、この世界が無くなったとき自分の意識はどこへ行くのかを、初めて考えました。自分の意識がいつか消えてしまうことに、得体のしれない恐怖を覚えました。人はいなくなる。それなら、自分がしていることに何の意味があるのか。当時の私はこの答えを出すことができませんでした。今にして思えば、この頃が色々な出発点だったように思います。
その後は、その問いとバランスをとりながら、天真爛漫な日々を過ごしました。特に嫌だった記憶もなく、楽しい日々でした。そして、小学6年のとき、L’Arc~en~Cielの「HONEY」を聴いて音楽に目覚め、楽器を始めました。ここから始まった音楽はいまも続いていて、私のパーソナリティを作っています。
中学2年の終わりのとき、偏差値は27でした
音楽は始まりましたが、勉強のほうは落ちるところまで落ちました。いまにして思えば、小学2年から3年にかけて授業中に体調を崩すことが多く、授業に穴が空いたところから勉強についていけなくなったのだと思います。授業中に座っているのが本当に苦痛で、集中ができない子どもでした。中学2年の終わりのとき、偏差値は27でした。
そこから死に物狂いで勉強し、高校受験時に偏差値50、大学受験時には偏差値65まで上がりました。入った高校は附属校で、外部の大学を一般受験するのは学年で数人です。英単語帳を開いているだけでガリ勉だといじられたので、予備校に通っていることは隠していました。そのあいだ、軽音楽部の部長をし、吹奏楽部も兼ね、校外の複数のバンドにも入っていました。
勉強に向かうきっかけをくれたのは、中二の終わりに出会った一人の恩師でした。偏差値27の私の可能性を信じてフラットな目線で接してくれた人です。その先生の前にいるあいだ、私は前向きに勉強に取り組めました。受け取ったものは、充足感のような、安心感のようなものです。
このとき、人は環境次第で変わると知りました。環境が揃っていないために、力を出せずにいる人がいます。その人たちの役に立ちたいという思いは、形を変えながら、いまも根底にあります。
大学でバンドをやめ、ビジネスに全振りしました
その思いが事業の形をとったのは、大学で、たまたまアルバイトをした書店の配属先がビジネス書売り場だったからです。自己啓発書やビジネス書を読むうちに、経営者という道が見えてきました。環境のせいで力を出せない人を支える事業をしたいと考え、バンドをやめました。ドラムは大学1年までに2,000時間ほど叩いていました。
いまにして思えば、社会人として生きていく自信がなく、認められたい気持ちもありました。バンド活動も義務のようになっていたのだと思います。バンドをやめた後は、ビジネス活動に邁進しました。
20代は休みなく働き、子会社の代表取締役社長になりました
事業をしたいという思いは、そのまま働き方になりました。大学在学中に、コンテンツSEOの、当時サテライトサイトと呼ばれたメディアを作るフリーランスとして独立しました。大学卒業後の就職先では、子会社の代表取締役社長に就任しています。いまにして思えば、大企業の課長代理から課長ほどの予算でしたが、それでもそのポジションに就いていました。20代は休みなく仕事に邁進しました。休みの日も頭の中では仕事が止まらず、それが当たり前だと思っていました。
その後、ヘッドハンティングを受けて、2社目のコンサルティング会社へ移籍しました。ここでも、数千名のグループのデジタル部門で、何度も1位を取りました。評価も報酬も上がり続けました。それなのに、同じ毎日の繰り返しの先にある人生が、なんとなく見えてしまいました。予定調和が見える。あるいは、見えた気になる。先が見えると、子どもの頃の問いがまた顔を出します。この先を積み上げて、何の意味があるのか。いまのように努力していれば、いつかのんびりと生きることができる。だから、いまはとにかく頑張ろうと思っていました。
30歳を過ぎた頃、電車にも飛行機にも乗れなくなりました
働き続けた身体は、30歳を過ぎた頃に止まりました。パニック障害と自律神経失調症を発症しました。閉所と高所がだめになり、電車と飛行機に乗れなくなり、高層階の会議室にも入れなくなりました。移動は、自転車と自家用車のみとなりました。
働き方は完全在宅に切り替え、それでも仕事の評価が下がった年は一度もありません。30代半ばには、1日4時間から5時間の労働で成果を出せるようになりました。ただし、趣味の範囲でAIの開発やクリエイティブ制作を1日10時間はしているので、周囲からみるとずっと仕事をしているようにみえているかもしれません。
仕事がうまくいっても、健康は戻りませんでした。動けなくなった私を実際に支えてくれたのは、家族と友人でした。積み上げてきたキャリアも金融資産も、動けない体には使えません。お金と評価を得れば、その後は楽になると思い、がむしゃらに働いてきましたが、それは違ったことに気づきました。ポートフォリオのようにバランスを持つべきだったのです。人生とは、まさにポートフォリオです。何を、どの割合で持つかは、自分で決められます。
今にして思えばですが、バンド活動を完全に絶って、ビジネスに全振りしたのは別の方法があったように思います。最初の3年はビジネス全振りで正解だったと思うのですが、その後は2:8なのか、3:7なのかもう少しバランスをとっても良かったと思います。ただ、そうすると今の金銭的な報酬や働き方の自由度は得られていなかったと思うので、答えが出ない問いです。
3社目の転職でグループ経営企画へ。企業は4種類ある
現在の経歴の話です。さらにヘッドハンティングを受けて、3社目の会社に入社しました。いまは従業員1,000人を超えるグループ企業で、ホールディングス経営企画室の責任者をしています。
ビジネスパーソンとして3社の会社を渡り歩いてきましたが、比較して色々な構造がみえてきます。2つの軸で比較したとき、企業は4つに分類できるということです。
1社目の会社は儲からず、金銭的にも時間的にも豊かさがなく、そして良心に反するビジネスをしているトップはイライラし不幸にみえました。自分が不幸ではないことを証明するために周りに敵を作り、自分をごまかしており、可哀想にみえていました。
2社目の会社は、儲けるとはこういうことだと教えてもらったように思います。ただし、ドーパミン中毒でセカセカしており、物質的には豊かでしたが、精神的な豊かさからは程遠い組織でした。自分の中身がないことから数字にこだわり、数字がアイデンティティとなり、心の枯渇感を埋められない組織です。この組織では常時70プロジェクトに入らせてもらって、累計300社の支援をさせてもらいました。それぞれの組織模様を目にしてきたことは、私の人生の糧になっています。
そして、現職である3社目は儲かるし、良心のある会社です。物質的な豊かさもあるし、精神的な豊かさもあります。1社目からこの会社に入社したかったと思いますが、色々な会社を経験したからこそ今の環境が最高であることがわかるのだと思います。
| 会社 | ビジネスの構造 |
|---|---|
| 1社目 | 儲からない、良心ないビジネス |
| 2社目 | 儲かる、良心ないビジネス |
| 3社目 | 儲かる、良心あるビジネス |
| その他 | 儲からない、良心あるビジネス |
いまの会社の仲間と、事業そのものを愛しています。この企業を数百年続く企業にする礎を作りたいと思っています。私の簡単な経歴は以上です。
思考、健康、人間関係。お金はその次です
私が大切にしているのは思考と健康と人間関係で、お金(資産形成)はその3つの上に置いています。お金は4番目です。物事は互いに影響し合っているので順番をつけること自体に無理はありますが、あえて並べるとこの順番になります。
お金を4番目にできたのは、日本で暮らすうえで、生活費はそこまで必要ないからです。事実、私の生活費は月12万円ほどです。
| 項目 | 月額 |
|---|---|
| 家賃 | 60,000円 |
| 水道 | 2,000円 |
| ガス | 2,000円 |
| 電気 | 6,000円 |
| インターネット | 4,510円 |
| スマホ | 105円 |
| 食料品 | 40,000円 |
ここから交際費や趣味への支出が加わることはありますが、毎月の実質の固定費はこの額です。住宅ローンもマイカーローンも含めて借金はなく、リーンですが、いわゆるFIREの水準にあります。いつでも仕事を辞められます。
2023年3月にはドラムを再開しました
お金を4番目に下げると、空いた場所に音楽が戻ってきました。ドラムから離れていたのは、20代から30代半ばまでです。その間も、音楽は聴き込んでいました。
2023年3月、赤い公園の音源を聴き、その楽しげな音に、またドラムを叩きたいと思いました。学生時代も楽しんでいましたが、学生時代とは異なり、単純に音を鳴らすことを楽しめるようになったと思います。学生時代からギター、ベース、ボーカルもやっていますが、メインはドラムです。
辞められるのに辞めず、休めないままです
配分は調整しましたが、暮らしがそのとおりに動いているわけではありません。いつでも仕事を辞められる状態で、辞めていません。義務ではなくなったからです。
一方で、休むのは下手なままです。休みの日にたわいもない動画を眺めていると、成長していない感じが気持ち悪くなります。役に立つことを磨いて伸びてきた人間は、役に立たない時間を過ごすのが苦手です。ここが、いまの私に残っている伸びしろです。
報酬を得るための労働に限れば、1日4〜5時間労働です。これは手を抜くのではなく、AIエージェントへ学習をさせたり、ガイドラインを作成して内製化し、手離れができる状態にした結果です。そのため、労働時間は減りましたが、産み出す付加価値は上がっています。何よりも、私に万が一があったときにも、取り組みを引き継ぐことができるようになっています。
ただ、これは報酬を得るための労働に限った話で、結局、趣味としてAIエージェントの開発や音楽制作をしています。これらの趣味の時間は、1日10時間ほどでしょうか。合計すると、1日14時間はデスクワークをしていることになります。
ですから、ここに並んでいるのは進行中の記録で、答えが出たものより、いま詰まっているもののほうが多くあります。心身の不調のことも書いていますが、不調が続いているときは、読むより先に医療機関で相談されることをおすすめします。
袋小路にいた頃の自分に宛てて
最後に、なぜ書いているのかを書きます。恩師が私にくれたものは、いまも言葉にできません。私が書くものも、読んだ人に答えを渡すものではありません。書いたものの価値は書いた側からは見えないところで生まれるので、価値があるかどうかを計算するのはやめました。頭の中を巡った考えを、書きたいときに書いています。恩師からもらったあの感じに近い何かが届けばいいと思っています。
いま袋小路にいる方へ。並んでいるうちの1本が、あなたがいま詰まっている場所と同じ話をしていたら、それが私にとって一番嬉しいことです。