創業期において、決算書上の「赤字」は多くの経営者にとって懸念材料となり得ます。金融機関からの評価、取引先からの信用、そして事業の将来性に対する不安が判断に影響を与える可能性は否定できません。赤字は速やかに解消すべき問題であるという考え方は、一般的な通念として存在します。
しかし、視点を変えれば、創業期の赤字は異なる意味を持ちます。それは、将来の大きな成長のために、現在、資源を投下している状態と捉えることができます。事業というポートフォリオ全体を俯瞰したとき、短期的な赤字は、長期的な成長を促すための戦略的な「投資」となり得るのです。
この記事では、税制度の構造を理解し、創業期の赤字を将来の利益に転換する「欠損金繰越控除」という仕組みについて解説します。目先の数字に過度にとらわれることなく、時間軸を考慮に入れた経営の考え方について考察します。
なぜ「創業期の赤字」を過度に問題視してしまうのか
創業期の赤字に対して強い懸念を抱く背景には、社会と心理に根差した、二つの構造的な要因が存在すると考えられます。
一つは、「黒字経営が健全である」という社会的な見方です。金融機関の融資評価や一般的な商習慣において、黒字は健全性の指標と見なされる傾向があります。この外部からの評価基準を内面化することで、赤字という状態そのものを、望ましくないものとして認識する場合があります。
もう一つは、より根源的な心理的要因、すなわち「損失回避性」です。人間は、何かを得る満足感よりも、何かを失う苦痛を強く感じる傾向があるとされています。目の前の決算書に表れる赤字という「損失」は、将来得られるかもしれない不確実な「利益」よりも、現実的な影響を私たちの判断に与えるのです。
これらの要因は、経営判断を短期的な視点に偏らせ、本来であれば実行すべき長期的な投資をためらわせる一因となる可能性があります。まず、この構造を客観的に認識することが、次の段階へ進むための起点となります。
赤字を将来の資産として捉え直す「欠損金繰越控除」制度
税法には、創業期の赤字を単なる損失で終わらせないための仕組みが設けられています。それが「欠損金の繰越控除」です。この制度を正しく理解することは、赤字に対する認識を転換する上で重要です。
欠損金とは、法人税法上の所得を計算する上での赤字を指します。そして繰越控除とは、その事業年度に生じた欠損金(赤字)を、翌事業年度以降に発生した黒字と相殺できる制度です。青色申告をしている法人であれば、原則として欠損金が発生した事業年度から10年間、この赤字を繰り越すことが可能です。
具体的な例で考えてみましょう。
- 1年目:事業への先行投資により、1,000万円の欠損金(赤字)が発生。
- 2年目:事業が軌道に乗り、1,500万円の所得(黒字)が発生。
この場合、欠損金繰越控除を適用しなければ、2年目の所得1,500万円に対して法人税が課されます。しかし、この制度を適用することで、2年目の所得1,500万円から1年目の欠損金1,000万円を控除した、残りの500万円に対してのみ法人税が課されることになります。
つまり、1年目の1,000万円の赤字は、将来支払うべき税金を軽減させる効果を持つ、一種の資産として機能すると考えられます。会計上、これは「繰延税金資産」という概念で扱われます。創業期の赤字は、将来の税負担を軽減する効果を持つものと捉え直すことができます。この視点の転換が、戦略的な財務計画の第一歩です。
「戦略的赤字」という考え方と長期的な事業計画
欠損金繰越控除という制度の存在は、経営判断に新たな選択肢をもたらします。それは、発生してしまった赤字に事後的に対処するだけでなく、事業成長のために意図的に「戦略的赤字」を計画に組み込むという、積極的な活用への転換です。
戦略的赤字とは、将来の収益基盤を構築するための先行投資を指します。例えば、優秀な人材の採用、最新の設備への投資、製品やサービスの品質を高めるための研究開発、市場での認知度を高めるためのマーケティング活動などがこれにあたります。これらは一時的に費用を増大させ、損益計算書(PL)を赤字にする可能性があります。
しかし、複数年度にわたる長期的な視点で見れば、これらの投資は将来の大きな利益の源泉となり得ます。そして、その過程で発生した赤字は、欠損金繰越控除によって将来の税負担を軽減し、結果として企業のキャッシュフローを改善させる効果が期待できます。単年度の利益の最大化ではなく、複数年にわたる事業価値の最大化を目指す。これが、時間軸を考慮した経営の考え方です。
もちろん、これは無計画に赤字を出すことを推奨するものではありません。事業の継続性にとって不可欠なキャッシュフローの管理は、重要な前提となります。その上で、明確な事業計画と将来の収益見通しに基づき、金融機関や株主といったステークホルダーに対して、その赤字が「未来への投資」であることを論理的に説明し、理解を得ることが求められます。
まとめ
この記事では、当メディア『人生とポートフォリオ』が扱うテーマの一つである「税金」について、特に創業期の経営者が向き合う課題に焦点を当てました。
創業期の赤字は、単なる損失ではなく、未来への投資と捉えることができます。そして「欠損金の繰越控除」は、その投資の価値を、将来の税負担軽減という具体的な効果に転換するための重要な制度です。この構造を理解することで、経営者は短期的な損益の変動に過度にとらわれることなく、長期的かつ戦略的な意思決定を下すことが可能になります。
赤字という状況をネガティブに捉えるのではなく、それを戦略的に活用し、将来の利益と計画的に相殺していく。この思考法は、変化の多い現代において、事業の持続的な成長を実現するための指針の一つとなるでしょう。









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