私たちの脳は、約1000億個の神経細胞(ニューロン)が形成する複雑なネットワークによって機能しています。これは、脳科学における基本的な理解です。しかし、近年の研究は、このモデルをより精密なものへと更新しています。脳を構成する細胞の約半数は、ニューロンではない「グリア細胞」であり、その中でも特に重要な役割を担うのが「アストロサイト」です。
かつてグリア細胞は、ニューロンを構造的に支持する「接着剤」のような存在だと考えられていました。しかし、その認識は大きく変わりつつあります。特にアストロサイトは、補助的な役割に留まらず、脳機能の根幹を支える重要な構成要素であることが明らかになってきました。
この記事は、神経伝達物質の動態だけでなく、その活動基盤となる脳内環境そのものが、いかに精緻に維持・調整されているかを解説します。この深層的なメカニズムを解明することは、脳というシステムの全体像をより深く理解する上で不可欠です。
本稿を通じて、脳機能に対する理解が、個々の神経細胞の活動という視点から、アストロサイトを含む細胞間の相互作用によって維持される、統合的なシステムという視点へと深まることを目指します。
脳細胞の構成要素:グリア細胞とアストロサイト
私たちの脳は、主にニューロンとグリア細胞という二種類の細胞で構成されています。長年、研究の対象はニューロンが中心であり、グリア細胞は文字通り「Glia(ギリシャ語で膠・のり)」が示すように、ニューロン同士を物理的に繋ぎとめる存在と見なされてきました。
しかし、このグリア細胞は脳細胞の約半数を占める多数派です。そして、グリア細胞の中でも最も数が多く、多彩な機能を持つのがアストロサイトです。
アストロサイトという名称は、その形状が「Astro(星)」と「cyte(細胞)」に由来します。星のように多数の突起を伸ばしたこの細胞は、その無数の突起を脳内に張り巡らせることで、ニューロンや血管と密接に連携し、脳機能の維持に不可欠な役割を果たしています。
アストロサイトの主要な機能
アストロサイトは、ニューロンを物理的に支えるだけではありません。その機能は極めて多岐にわたり、脳の恒常性維持から高度な情報処理まで、様々な側面に関与しています。ここでは、アストロサイトの機能の中でも特に重要なものを解説します。
神経細胞への物理的・栄養的支援
アストロサイトの基本的な役割の一つは、ニューロンの活動を支援することです。具体的には、血管からブドウ糖を取り込み、ニューロンがエネルギーとして利用しやすい乳酸などの物質に変換して供給します。これは、活動量の多いニューロンにとって重要なエネルギー補給経路です。
また、物理的な足場としてニューロンの適切な配置を助け、シナプス(ニューロン間の接合部)の形成や維持にも関与します。このように、神経細胞の活動環境を整え、その機能を支えています。
脳内環境の恒常性維持
ニューロンは、情報を伝達する際に「神経伝達物質」や「カリウムイオン」などを細胞外に放出します。これらの物質が過剰に蓄積すると、脳は正常に機能できなくなる可能性があります。
ここでアストロサイトが重要な役割を担います。例えば、興奮性の神経伝達物質であるグルタミン酸がシナプス周辺に過剰に存在すると、ニューロンが過剰に興奮し、細胞に損傷を与えることも考えられます。アストロサイトは、その突起を用いて余分なグルタミン酸を速やかに回収し、脳内環境を安定させます。
この精密な調整システムは、脳が健全な活動を継続するための基盤であり、アストロサイトの機能の重要性を示す一例です。
血液脳関門の構築と維持
脳は、人体において極めて重要な器官であり、非常に繊細な組織です。そのため、血液中の有害物質や病原体が脳内へ侵入するのを防ぐための、特殊なバリアシステムが存在します。これが「血液脳関門(Blood-Brain Barrier: BBB)」です。
アストロサイトは、その突起の先端部分(エンドフット)で脳内の毛細血管を覆い、この血液脳関門の構造を形成・維持する中心的な役割を担っています。血管の内皮細胞同士の結合を強固にし、物質の通過を厳密に選択させることで、脳を保護しているのです。この防御機構も、アストロサイトの重要な機能の一つです。
情報処理への関与とトリパタイトシナプス
アストロサイトに関する近年の研究で特に注目されているのが、情報処理への能動的な関与です。
かつて、情報伝達はニューロン同士(シナプス前部と後部)の二者間で行われると考えられてきました。しかし現在では、そのシナプスにアストロサイトの突起が近接し、三者間で情報伝達を制御しているという「トリパタイトシナプス(三者間シナプス)」という概念が提唱されています。
アストロサイトは、ニューロンの活動を感知すると、自らも「グリオトランスミッター」と呼ばれる情報伝達物質を放出することがあります。これがシナプス伝達の効率を変化させ、情報の流れを調整するのです。このメカニズムは、記憶や学習の基盤となるシナプス可塑性に関わっている可能性が示唆されています。
このことから、アストロサイトは単なる支持細胞ではなく、ニューロンと相互に作用し、情報処理に能動的に関与する要素であると考えられています。
まとめ
これまで見てきたように、アストロサイトは、かつての「脳の接着剤」というイメージとは異なり、極めて能動的で多機能な細胞です。
- 栄養供給と物理的支持によって、ニューロンの活動を支える。
- 神経伝達物質やイオンの濃度を調整し、脳内環境の恒常性を維持する。
- 血液脳関門を構築・維持し、脳を保護する。
- シナプス伝達に介入し、記憶や学習などの高度な機能に関与する可能性がある。
ニューロンを中心とした従来の脳機能の理解は、アストロサイトの役割が解明されることで、より多角的で複雑なシステムとして捉え直されつつあります。そこには、ニューロンの活動を支え、守り、調整し、さらには共に情報処理を行うアストロサイトという、もう一つの重要な構成要素が存在します。
このメディアでは、物事を構成する要素を多角的に捉え、その相互作用から本質を理解することを重視しています。脳の理解においても同様のアプローチが有効です。ニューロンという単一の要素だけでなく、アストロサイトを含めた脳全体のシステムとして捉え直すことで、その驚くべき複雑さと精緻さが見えてきます。
脳の動作原理をシステムとして理解することは、私たち自身の思考や健康の基盤を考える上で、新たな視点を提供する可能性があります。









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