なぜ私たちの意識は、絶えず「自分自身」に関する問題に向かい、貴重な精神的リソースを消耗してしまうのでしょうか。多くの人はストレスに対処するため、気晴らしや娯楽を求めますが、それらは一時的な気分の変化に留まり、根本的な解決に至らない場合があります。
本稿では、そうした一時的な対処法とは異なる、より根源的なアプローチとして「畏敬の念(Awe)」という感情概念を提示します。これは、私たちのメディア『人生とポートフォリオ』が探求する、脳と心の仕組みを理解し、人生の質を向上させるための重要な要素です。
大自然の雄大さや壮大な芸術に触れた際に生じるこの「畏敬の念」が、自己への過度な執着を静め、体内の炎症レベルを低下させる可能性が研究によって示唆されています。本稿では、「畏敬の念」がもたらす心理的・身体的な効果を構造的に解説し、自己と世界をより大きな視点から捉え直すための知見を提供します。
「畏敬の念」の定義:心理学における二つの構成要素
「畏敬の念(Awe)」とは、単なる感動や驚きとは区別される、より複雑で深遠な感情です。心理学の分野では、この感情は主に二つの要素から構成されると定義されています。
第一の要素は「知覚的な広大さ(Perceived Vastness)」です。これは、物理的な大きさ(例:渓谷)、社会的な規模(例:歴史上の偉業)、あるいは概念的な広がり(例:高度な科学理論)など、自分自身の存在を相対的に小さく感じさせるような、圧倒的なスケールとの遭遇を指します。
第二の要素は「概念の調整(Need for Accommodation)」です。これは、広大な対象に直面した際、個人が持つ既存の知識や世界観の枠組みではそれを完全には理解できず、その枠組み自体の更新や調整が必要になる状態を意味します。つまり、既知の理解を超えたものに対する、知的・感情的な適応のプロセスです。
この二つの要素が組み合わさることで、「畏敬の念」という特有の感情体験が生まれます。それは、自己の存在がより大きな文脈の中に位置づけられ、相対化されるプロセスであると解釈できます。
心理的効果:「小さな自己」が思考の過活動を抑制する
「畏敬の念」が、なぜ私たちを日々の悩みから解放するのでしょうか。その心理的な効果の核心には、「小さな自己(Small Self)」という感覚への移行があります。
私たちの脳には、自己言及的な思考、つまり「自分のこと」を考える際に活動が活発になる「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」という神経回路網が存在します。特定の悩みや不安に意識が集中している時、このDMNは過剰に活動している状態にあると考えられています。
「畏敬の念」を体験すると、意識の焦点が内側(自己)から外側(広大な対象)へと移行する現象が起こります。このプロセスがDMNの活動を抑制し、自己を中心に展開される思考の連続を緩和する可能性があります。結果として、普段は大きく捉えていた個人の問題が、より大きな文脈の中で相対化され、心理的な距離が生まれると考えられています。
これは、問題を軽視するのではなく、より広範な視点から自己と世界を捉え直すことで、問題との間に適切な距離感を見出すプロセスです。この「小さな自己」への感覚のシフトが、「畏敬の念」がもたらす心理的効果の根源にあるとされています。
身体的効果:慢性的な炎症レベルを低下させる可能性
「畏敬の念」が与える影響は、心理的な側面だけに留まりません。近年の研究では、身体的な健康、特に「炎症」との関連性が示されています。
カリフォルニア大学バークレー校の研究チームは、様々なポジティブな感情と、体内の炎症レベルの指標となる「炎症性サイトカイン」との関連性を調査しました。サイトカインは、免疫系が感染や傷害に反応して放出するタンパク質ですが、慢性的な心理的ストレスによっても過剰に分泌され、心血管疾患や自己免疫疾患を含む、複数の健康問題のリスクを高めることが知られています。
この研究によれば、調査されたポジティブ感情の中でも、「畏敬の念」をより頻繁に体験する人ほど、炎症性サイトカインの一種である「インターロイキン6(IL-6)」の血中濃度が低い傾向にあることが示されました。
この結果は、「畏敬の念」が自己に集中しがちな注意を外へ向け、ストレス反応を緩和することで、結果的に体内の慢性炎症を抑制する可能性を示唆するものです。これは、当メディアが重視する「健康資産」を維持するための、具体的で実践的なアプローチの一つとなり得ます。
日常で「畏敬の念」を体験するための方法
「畏敬の念」を体験するために、特別な場所へ赴く必要は必ずしもないと考えられます。意識の向け方次第で、日常の中にもその機会は存在します。
自然との接触
最も簡便で効果的な方法の一つは、自然に触れることです。広大な海や空を眺める、森の中を歩く、星空を見上げる、あるいは滝の音を聞くといった体験は、私たちに「知覚的な広大さ」を直接的に感じさせます。
芸術や音楽への没入
人間の創造活動もまた、「畏敬の念」の源泉となり得ます。美術館で壮大な作品に対峙する、あるいはコンサートホールで複雑かつ調和のとれた演奏に耳を傾けることなどが挙げられます。優れた芸術は、人間の知性や感性の広大さを示し、私たちの「概念の調整」を促すことがあります。
知的探求
科学的な発見や深遠な思想に触れることも、知的な「畏敬の念」を引き起こす可能性があります。宇宙の起源や生命の進化に関する情報を得る、あるいは数理モデルの構造的な美しさを知る、といった知的体験は、私たちが存在する世界の複雑さと秩序に対して新たな視点を与えます。
これらの体験から「広大さ」や「自己との関係性」を見出す意識が、その効果を高める可能性があります。近所の公園にある大きな樹木、窓から見える雲の流れ、あるいは子供が発する純粋な問いかけの中にも、「畏敬の念」の入り口は見出せるかもしれません。
まとめ
本稿では、「畏敬の念(Awe)」という感情が、私たちの心と身体に与える影響について、心理学と脳科学の知見を基に解説しました。
特定の思考に意識が集中する状態から距離を置くためには、一時的な気晴らしだけでは不十分な場合があります。より本質的なアプローチは、自己と世界との関係性を再定義し、より大きな文脈の中に自分を位置づけることにあります。
「畏敬の念」は、そのための有効な手段の一つと考えられます。それは、自己中心的な思考の活動を緩和し、「小さな自己」という適切な視点をもたらす可能性があります。さらに、その影響は精神的な領域に留まらず、ストレス反応を介して体内の慢性炎症を抑制することも示唆されています。
これは、私たちのメディア『人生とポートフォリオ』が提唱する、人生における重要な「時間資産」と「健康資産」を豊かにするための、具体的な戦略でもあります。もし日々の思考に多くの時間を使っていると感じるなら、意識の一部を大自然や芸術、知の探求へ向けることを検討してみてはいかがでしょうか。それは、自己の内面を豊かにし、より広い視野を獲得するための建設的な時間の使い方となり得ます。









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