「自分が直接利用しないサービスのために、なぜ税金を払わなければならないのか」。特に、高齢者医療費の負担や、生活保護制度のあり方が議論される際、このような疑問を抱くことは、不自然なことではありません。
サービスを受けた人が、その対価を支払うべきだという考え方は、「受益者負担の原則」と呼ばれます。この原則は、一見すると公平で、合理的に聞こえます。市場経済の基本的な考え方にも合致しており、私たちの直感的な正義感に訴えかける側面も持っています。
このメディア記事は、受益者負担の原則そのものを否定するものではありません。市場原理が有効に機能する場面において、この原則は効率的な資源配分を促す重要な役割を果たします。
しかし、その原則が社会の隅々にまで過度に適用されたとき、私たちの共同体はどのような姿になるのでしょうか。本稿では、この「公平さ」が内包する問題を社会学的な視点から考察し、「不公平感」の正体と、その先にある社会の形を探ります。
なぜ「受益者負担」は、これほどまでに正しく聞こえるのか
私たちが「受益者負担」という言葉に、一種の正しさを感じる背景には、心理的な要因と社会的な要因が関わっています。
公平でありたいという欲求と、損をしたくないという感情
人間の心には、世界は公正であってほしいと願う「公正世界仮説」と呼ばれる心理的な傾向が存在する可能性があります。努力が報われ、悪い行いには相応の結果が伴うべきだという信念です。受益者負担は、この「受けた恩恵には、コストを支払うべきだ」という直感的な公平感と相性が良いと考えられます。
同時に、自分が得たリソースを、直接的な貢献が見えない他者に利用されることへの抵抗感も、自然な感情と言えるでしょう。これは、自分が不利益を被ることを避けたいという「損失回避性」とも結びついています。これらの心理は、小規模なコミュニティで互いを認識し、協力関係を維持していく上で、有効な機能を持っていたのかもしれません。
自己責任を是とする社会の空気
こうした個人の心理に加え、現代社会の潮流も、受益者負担の考え方を後押ししています。市場原理を重視し、個人の自立と自己責任を評価する考え方が広まる中で、かつて「公」が担ってきた領域が、次第に「民」の論理、すなわち市場の論理で語られるようになりました。
「自分が使わないサービスは、自分には関係ない」という感覚は、社会全体が個人の集合体として捉えられ、共同体としての繋がりが希薄化していく過程で、より強固なものになっていく可能性があります。
直接的な利用者だけではない「受益者」の範囲
受益者負担の原則を考える上で、重要な論点があります。それは、「受益者」とは一体誰なのか、という問いです。多くの場合、私たちはサービスの直接的な利用者のみを「受益者」と捉えがちですが、その範囲は、私たちが認識しているよりも広く、時間的にも空間的にも広がっています。
時間軸で考える「未来の自分」という受益者
現在のあなたが健康で、公的な医療サービスをほとんど利用していなかったとします。しかし、未来のあなたについてはどうでしょうか。私たちは誰しも、加齢による身体機能の変化や、予期せぬ病気、事故のリスクから完全に自由ではいられません。
社会保障制度、特に年金や医療保険は、現在の現役世代が、未来の自分自身、あるいは親世代などを支えるという、世代を超えた相互扶助の仕組みです。今、支払っている保険料や税金は、決して他者のためだけのものではありません。それは、将来自分が受益者になったときのために、社会全体で備える将来のリスクに対する社会的な積立と捉えることもできます。
間接的に恩恵を受ける「社会全体の私」
もう一つの視点は、間接的な受益です。たとえあなたが直接サービスを利用しなくても、そのサービスが存在することで社会全体が安定し、その恩恵を間接的に受けているケースは少なくありません。
例えば、公教育制度です。あなたに子供がいなくても、社会の教育水準が維持されることで、識字率が高まり、労働生産性が向上し、経済活動全体が活性化する可能性があります。その安定した社会基盤の上で、私たちは日々の生活を営んでいます。
あるいは、治安維持や消防活動も同様です。あなたが一度も事件や火災に遭ったことがなくても、警察や消防が存在するという安心感、そして実際に犯罪や災害が抑制されているという事実そのものが、大きな便益を社会の構成員全員にもたらしています。
失業保険や生活保護といったセーフティネットも、社会不安の増大を防ぎ、治安の悪化を抑制する機能を持っています。社会からこぼれ落ちる人をなくすことは、結果的に社会全体の安定に繋がり、それは社会の構成員全体の利益に繋がる可能性があります。
このように考えると、「受益者」とは、サービスを直接利用する人々だけを指すのではないことがわかります。
受益者負担の原則が内包する「線引き」という課題
では、全てのサービスを税金で賄うべきかというと、話はそう単純ではありません。ここに、受益者負担の原則が直面する、本質的な課題が潜んでいます。それは、「どこまでを個人の自己責任とし、どこからを共同体全体の責任とするか」という、線引きの問題です。
「運」と「努力」の境界線はどこにあるか
例えば、ある人が生活習慣病になったとします。これを完全に「自己責任」と断じ、医療費の全額自己負担を求めることは、公平と言えるでしょうか。個人の食生活や運動習慣に起因する部分もあるでしょう。しかし、その背景には、遺伝的な体質、ストレスの多い労働環境、あるいは安価で不健康な食品しか手に入らないといった社会経済的な要因が複雑に絡み合っているかもしれません。
失業についても同様です。本人の努力不足という側面が皆無とは言えないかもしれません。しかし、多くの場合、景気の変動、産業構造の転換、あるいは技術革新といった、一個人の努力では対処が難しいマクロな要因によって、職が失われることもあります。
生まれながらにして重い障害や難病を抱える人々については、言うまでもありません。彼らは自ら望んで「受益者」になったわけではありません。こうした「運」の要素によって生じた困難を、全て個人の責任としてしまう社会は、私たちが望む社会の姿でしょうか。
受益者負担の原則を過度に、そして画一的に適用することは、こうした偶然の要素を無視し、社会に存在する格差を固定化させ、拡大させてしまう可能性があります。
まとめ:私たちは、どのような「社会契約」を結びたいのか
本稿で述べてきたように、受益者負担の原則は、それ自体が問題なのではありません。個人の選択が結果に直結する領域においては、有効に機能する公正な仕組みです。
しかし、医療、福祉、教育、そして社会のセーフティネットといった領域は、少し異なる論理で考える必要があります。なぜなら、それらは単なる「サービス」ではなく、予測不可能な人生のリスクに対する「社会的な備え」であり、私たちという共同体を維持するための「相互扶助の仕組み」そのものだからです。
「自分が使わないサービス」という視点を一度手放して、「自分もいつか使うかもしれないセーフティネット」あるいは「この社会が安定して存続するために必要なコスト」という視点に立ったとき、見え方が変わるかもしれません。
私たちが税金や社会保険料を支払うという行為は、単なるコストの負担ではありません。それは、私たちがどのような社会に住みたいのか、どのようなリスクを個人が負い、どのようなリスクを社会全体で引き受けるべきなのか、という「社会契約」に対する意思表示と捉えることができます。
その線引きは、どこにあるべきか。絶対的な正解のない、この難しい問いに向き合い続けることが、より良い共同体を構想する上で、重要になると考えられます。









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