「社会的事実」という見えない力：私たちの思考はどのように社会から形成されるのか

私たちは、自身の人生を自らの意志で選択していると考えています。どの大学に進学し、どのような職業に就き、誰と人生を共にするか。これらの決断は、すべて「私」という主体が行ったものだと。しかし、その感覚は果たして、どの程度まで客観的な事実なのでしょうか。

もし、あなたの思考や感情、価値観の根底に、個人の意識を超えた力が作用しているとしたら、どうでしょうか。

本記事は、このメディアの主要テーマである『社会システムの構造分析』の一環として、フランスの社会学者エミール・デュルケムが提唱した「社会的事実」という概念を掘り下げます。この概念は、私たちが自律的であるという認識を客観的に見つめ直し、自己理解を深めるための重要な視点を提供します。

デュルケムが提起した「社会的事実」とは何か

「社会的事実」とは、具体的に何を指すのでしょうか。デュルケムによれば、それは「個人の外部に存在し、個人に対して拘束力を持つ、あらゆる思考・行動・感情の様式」と定義されます。

少し難解に聞こえるかもしれません。具体例を挙げると、その意味はより明確になります。私たちが日常的に使う「言語」や「通貨」、あるいは「法律」や「道徳」。これらはすべて社会的事実の典型です。

私たちは生まれたとき、日本語や円というシステムを自ら作り出したわけではありません。それらは、私たちが生まれる以前から社会に存在し、私たちはそれを後から学習します。そして、このシステムに従わなければ、社会生活を円滑に進めることは困難です。これが、デュルケムの言う「社会的事実」が持つ性質です。

外在性と拘束性：社会が個人に及ぼす影響

デュルケムは、「社会的事実」が持つ二つの重要な特徴を指摘しました。「外在性」と「拘束性」です。

• 外在性: 社会的事実は、個人の意識の外側に存在します。法律や道徳規範は、私がそれをどう思うかとは無関係に、客観的な事実として存在しています。
• 拘束性: 社会的事実は、私たち個人に対して一種の拘束力を持ちます。法律に違反すれば罰せられますし、社会的な慣習から大きく逸脱すれば、非難されたり、社会的に孤立したりする可能性があります。

この目に見えない拘束力こそ、私たちが社会の中で生活する上で、知らず知らずのうちに思考や行動を方向づけられている構造的な影響の一因と考えられます。

なぜ私たちは「社会的事実」に気づかないのか

では、これほど強力な力が働きながら、私たちはその存在をほとんど意識することがないのでしょうか。それは、教育や社会化のプロセスを通じて、社会的事実が私たちの内面へと深く浸透し、「内面化」されるからです。

物心ついたときから特定の言語を話し、特定の道徳観を教え込まれることで、それらはもはや外部からの強制ではなく、自分自身の「当たり前」の一部となります。あまりにも自明なものとして、私たちの意識に上りにくくなるのです。

私たちの内面は、いかにして社会に形成されるか

デュルケムの視点を用いることで、私たちの内面、すなわち価値観や信念が、いかに社会によって深く形成されているかが見えてきます。それは、単に行動が制約されるという次元の話ではありません。私たちの感じ方や考え方そのものが、社会構造の影響を受けている可能性を示唆します。

集合意識：思考の基盤となる社会の価値観

デュルケムは、社会全体に共有されている信念や感情の総体を「集合意識」と呼びました。これは、個人の思考の基盤を形成する、社会的な価値観の体系と考えることができます。

私たちは「自由な思考」をしているつもりでも、実際には社会に共有された集合意識という基盤の上で思考を展開しているのかもしれません。「良い人生とは何か」「何を幸福と感じるか」といった根源的な問いに対する答えも、この集合意識によってあらかじめ方向づけられている可能性があります。

「社会分業」がもたらす個人の感覚

近代社会の特徴である「社会分業」の進展は、この問題をより多角的にします。社会の機能が細分化し、人々が異なる職業や役割を担うようになると、それぞれの経験や価値観も多様化します。これにより、人々は「自分は他者とは違う、独自の個人である」という感覚を強く抱くようになります。

しかし、デュルケムの視点に立てば、その「個性」すらも、社会構造が生み出した特定の役割を担っている結果である、と解釈することも可能です。医師としての価値観、エンジニアとしての思考法、芸術家としての感性。それらもまた、社会分業システムという、より大きな構造によって規定された「社会的事実」の一つの現れである、という見方ができます。

「社会的事実」と向き合い、自律性を探る

デュルケムの理論は、私たちの自由意志という感覚に、新たな視点を与えるものです。しかし、これは私たちを無力感を抱かせるためのものではありません。むしろ、この構造を理解し、自覚することこそが、真の自律性を獲得するための一歩となり得ます。

自己を客観視するための一歩

まず、ご自身の内面を観察することから始めてみてはいかがでしょうか。あなたが「当たり前」だと信じている価値観は、一体どこから来たのでしょうか。

例えば、「良い会社に入り、懸命に働き、高い地位と収入を得ることが成功である」という価値観。これは、本当にあなた自身の内面から生じた欲求でしょうか。それとも、社会があなたに提示した「社会的事実」の一つではないでしょうか。この問いを持つこと自体が、客観的な自己分析の始まりです。

社会からの影響を認識し、ポートフォリオを再設計する

社会が規定する成功モデルが「社会的事実」であると認識できたなら、次に検討すべきは、あなた自身の価値基準に基づいた人生のポートフォリオを再設計することです。

当メディアが提唱する「人生のポートフォリオ」とは、金融資産だけでなく、時間資産、健康資産、人間関係資産といった、人生を構成するすべての要素を俯瞰的に捉える考え方です。「社会的事実」としての成功にリソースを偏重させるのではなく、あなたにとって本当に価値のある資産に、意識的に再配分していく。デュルケムの視点は、そのための冷静な分析ツールとして機能する可能性があります。

まとめ

フランスの社会学者デュルケムが示した「社会的事実」という概念は、私たちの思考や行動が、個人の意志を超えた社会の力によっていかに強く規定されているかを明らかにしました。それは、私たちが普段意識することのない、しかし確実に存在する社会からの見えない影響力です。

この力の存在を知ることは、私たちの自律性という認識を見直すきっかけになるかもしれません。しかし、それは絶望の始まりではありません。むしろ、自分がどのような社会的構造の中に置かれているかを自覚し、その影響を客観視することで、私たちは初めて社会的に形成された欲求から距離を置き、自分自身の価値基準で人生を設計するための、新たな視点を得ることができるでしょう。