現代の経済システムにおいて、銀行預金や貸付に利子が付くことは当然のことと考えられています。しかし歴史を遡ると、特に中世のキリスト教世界では、利子を取る行為そのものが「ウスラ(usury)」と呼ばれ、道徳的・宗教的な観点から「罪」と見なされ、厳しく禁止されていた事実があります。
現代の私たちにとって当たり前の金融行為が、なぜこれほどまでに問題視されたのでしょうか。本稿では、中世キリスト教における利子禁止の論理を、その思想的背景から分析します。この探求は、現代の金融資本主義や不労所得をめぐる私たちの価値観が、決して普遍的なものではなく、特定の歴史的・思想的な変遷の末に成立したものであることを理解する上で、重要な視点を提供します。
「不自然な増殖」への哲学的視点:アリストテレスの遺産
中世ヨーロッパにおける利子禁止の思想的源流は、古代ギリシャの哲学者アリストテレスにまで遡ります。彼はその著書『政治学』の中で、富の獲得術(chrematistics)を、家政(oikonomia)に属する自然な獲得術と、不自然な獲得術の二つに分類しました。
アリストテレスにとって、貨幣の本来の機能は、異なる商品を交換するための「尺度」であり「媒体」でした。例えば、農夫が作った小麦と、靴職人が作った靴を交換する際に、その価値を仲介するのが貨幣の役割です。貨幣はそれ自体に価値があるのではなく、交換を円滑にするための道具にすぎないと彼は考えました。
しかし、利子を取る行為は、この貨幣の本来の目的から逸脱しているとアリストテレスは指摘します。彼は、利子のことをギリシャ語で「トコス(tokos)」と呼びましたが、この言葉は「子孫」や「子ども」を意味します。利子とは「お金から生まれたお金」であり、本来子どもを産む能力のない無生物である貨幣が、まるで生き物のように子を産む「不自然な増殖」であると見なしたのです。
この、お金がお金を生むべきではないというアリストテレスの思想は、13世紀のスコラ学者、特にトマス・アクィナスによってキリスト教神学に統合され、中世の経済倫理の根幹をなすことになりました。
時間は神の所有物:利子をめぐる神学的論理
アリストテレスの哲学に加え、中世キリスト教世界が利子を禁止した、より本質的な論拠は神学的なものでした。それは、「時間」の所有権をめぐる問題です。
中世の神学者たちにとって、時間は人間のものではなく、神によって創造され、すべての人間に無償で、そして平等に与えられた神の所有物でした。時間は、空気や水と同様に、誰もが自由に利用できるものの、誰もそれを私有し、売買することは許されないと考えられていました。
この論理に基づくと、貸付行為は以下のように解釈されます。貸し手は、借り手から利子を取ることで、何を売っているのでしょうか。貸した元本そのものではありません。もし元本を売ったのであれば、それは貸付ではなく売買契約です。貸し手が売っているのは、借り手がそのお金を使用することを許した「時間」です。
つまり、利子を取る行為は、神の所有物である「時間」を売って不当な利益を得る行為に等しいと解釈されたのです。これは神の権威を侵す行為であり、重大な罪と見なされました。この神学的論理こそが、中世ヨーロッパにおいて利子付きの貸付を厳しく禁じる、最も根源的な理由でした。
不労所得への倫理的問い:労働なき利益の是非
哲学的な論点と神学的な論理に加え、利子禁止の背景には社会倫理的な問いも存在しました。それは、労働を伴わない所得、すなわち「不労所得」への根源的な疑念です。
中世社会では、アダムとイブの原罪以来、人間は「額に汗して」働くことによって糧を得るべきであるという労働観が支配的でした。正当な富とは、自らの労働や創意工夫によって生み出されるべきものであり、他者の労働や窮状につけ込んで利益を得ることは、道徳的に許容されがたい行為でした。
利子を取る貸金業は、この倫理観に反するものと映りました。貸し手は自ら労働することなく、お金を貸すという行為だけで、借り手の労働の成果の一部を得ていると見なされたのです。特に、生活に困窮した人々が、生きるためにやむなく高金利の借金をする事例が多かったため、利子を取る行為は、弱者をさらに苦しめる非人道的な側面を持つと認識されていました。
この労働なき所得をめぐる倫理的な問いは、現代社会における議論にも通底しています。例えば、労働所得と金融所得(株式の配当や売却益など)に対する課税のあり方をめぐる議論です。この根底には、中世以来の「労働によって得た所得」と「資産から生まれる所得」をどう評価するかという、倫理的な価値判断が存在している可能性があります。
理論と現実の狭間:中世金融の実態
しかし、どれほど厳格な禁止令が存在しても、商業活動が活発化すれば、信用の供与や資金の貸借は不可欠となります。中世ヨーロッパの経済は、この「利子禁止」という原則と、経済的現実との間の緊張関係の中で、様々な工夫を生み出していきました。
例えば、為替手形を用いた取引です。遠隔地の商人同士が決済を行う際、為替レートの変動や手数料という名目で、実質的な利子を上乗せする手法が考案されました。これは、利子という言葉を使わずに利潤を得るための一つの方法として用いられました。
また、キリスト教徒が利子を取ることを禁じられていたため、その役割を、キリスト教の教会法に制約されないユダヤ人コミュニティが担う事例が見られました。彼らは君主や貴族、商人たちに資金を融通する金融業者として経済的に重要な役割を果たしましたが、同時に社会的な偏見にさらされる原因ともなりました。
さらに、イタリアのロンバルド商人や、聖地巡礼者の保護と金融業務を担ったテンプル騎士団のような組織も、巧みな会計技術や寄付、手数料といった名目を用いて、実質的な金融業を展開しました。このように、利子禁止の原則は、社会の経済的要請の前で、次第にその適用が限定的になっていく側面も見られました。
資本主義の萌芽:「利子」から「利潤」への概念転換
中世の終わりからルネサンス、そして宗教改革の時代にかけて、利子に対する考え方は大きな転換点を迎えることになります。特に、ジャン・カルヴァンに代表されるプロテスタンティズムの勃興は、経済倫理に大きな変化をもたらしました。
カルヴァン派は、勤勉に働き、その結果として富を蓄えることを神からの祝福の証と見なす、新しい労働倫理を提示しました。この文脈において、単に他者の窮状につけ込む高利貸し(usury)と、生産的な事業への投資から得られる正当な収益(interest)とを区別する考え方が生まれます。
誰かの事業に資金を投じ、その事業が成功して生み出した利益の一部を、リスクを引き受けた対価として受け取ることは、もはや搾取ではなく、経済活動への貢献であり、正当な「利潤」であると見なされるようになったのです。
この「利子」から「利潤」への概念の転換が、現代につながる資本主義の精神の源流の一つとなったのです。
まとめ
本稿では、中世キリスト教世界が利子を禁止した思想的背景を、複数の側面から分析しました。その理由は単一のものではなく、以下の論理が複雑に絡み合っています。
- 哲学的な視点: アリストテレス以来の、「お金がお金を生むのは不自然だ」という思想。
- 神学的な論理: 「時間は神の所有物であり、人間がそれを売買して利益を得てはならない」という考え方。
- 倫理的な価値観: 労働を伴わない不労所得は、他者からの搾取であり、道徳的に許されないという考え方。
これらの厳格な倫理観は、商業の発展という現実に対応する中で様々な例外を生み出しつつも、長らく西欧社会の経済活動を規定してきました。そして宗教改革期を経て、生産的な投資に対する「利潤」を肯定する新しい倫理観が台頭し、現代の資本主義経済への道が開かれていきます。
私たちが当然のものとして受け入れている経済のルールや価値観が、決して絶対的なものではなく、長く複雑な思想的変遷の末に成立したものであること。この歴史的視座を持つことは、現代社会におけるお金や時間、そして労働といった概念を、より深く、相対的に捉え直すきっかけとなります。そしてそれは、自分自身の価値基準で人生を設計していく上で、重要な知的基盤となり得るでしょう。









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