なぜ私たちは「与える」ことよりも「与えられる」ことを求めてしまうのか

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「愛されたい」という願いの裏側

「多くの人から愛されること」「社会から承認されること」は、現代において、幸福を測るための一つの指標と見なされています。私たちは、他者からの肯定的な評価や関心を得ることで、自分の価値を確かめようとします。その願いは、ごく自然な人間的感情です。

しかし、この「与えられる」ことへの渇望が、私たちの心を常に満たし、安定させてくれるとは限りません。むしろ、他者の評価という不安定なものに自分の幸福を委ねることで、私たちはかえって不安になり、他者への精神的な依存を深めてしまう可能性があります。常に「足りない」という感覚に苛まれ、与えられることを求め続ける。その連鎖から、どうすれば抜け出せるのでしょうか。

社会学者であり精神分析家でもあったエーリッヒ・フロムは、この現代的な風潮に対し、愛の本質は「与えられる」ことではなく、能動的に「与える」ことにあると説きました。この記事では、フロムの思想を手がかりに、愛を感情ではなく、私たちが主体的に実践できる「技術」として捉え直してみたいと思います。

消費社会が育む「受け身」の愛

フロムが生きた20世紀半ばから現代に至るまで、私たちは「消費」を前提とした社会に生きています。市場は絶えず、「これさえ手に入れれば、あなたはもっと魅力的になれる」「このサービスを受ければ、あなたの孤独は満たされる」といったメッセージを発信し続けています。

このような環境に日常的に身を置くことで、私たちは「何かを受け取ることによって、幸福や満足が得られる」という思考様式を内面化していきます。そしてこの様式は、人間関係のあり方、特に「愛」という領域にまで影響を及ぼしている可能性があります。私たちは無意識のうちに、愛さえも、誰かから「与えられる」べき商品やサービスのように捉えてしまうのです。

この受け身の姿勢は、「自分は十分に愛されているか」「もっと承認されるべきではないか」という、他者評価への過度な依存を生み出します。愛の主導権を相手に委ねてしまうことで、私たちは自らの手で幸福を築き上げる力を失っていくのかもしれません。

愛は感情ではなく「技術(アート)」である

フロムの思想の核心は、愛を、私たちのコントロールの及ばない神秘的な感情としてではなく、意志的に習得できる「技術(アート)」として捉え直した点にあります。

私たちはよく、恋に「落ちる(fall in love)」という表現を使います。これは、愛が自分の意志とは無関係に、ある日突然訪れる受動的な出来事であることを示唆しています。しかしフロムは、これは愛の始まりの段階に過ぎないと言います。真の愛とは、ピアノの演奏や絵画の制作、あるいは医療や工学といった専門分野と同じように、理論を学び、実践を繰り返すことによって初めて上達していく、主体的な活動であると説きました。

それは、感情の有無に左右されるものではなく、「愛する」という動詞が示す通り、極めて能動的な意志と選択の積み重ねなのです。

「与える愛」を構成する四つの要素

では、愛という「技術」は、具体的にどのような要素で構成されているのでしょうか。フロムは、その基本的な要素として「配慮」「責任」「尊敬」「知」の四つを挙げています。

配慮(Care)

配慮とは、相手の生命や成長に対して、積極的に関心を寄せることです。それは、私たちが植物に水をやり、太陽の光を当てる行為に似ています。相手が健やかであること、その人らしくあれることを願い、そのために能動的に働きかける姿勢を指します。

責任(Responsibility)

ここで言う責任とは、義務や強制のことではありません。それは、他者からの(言葉にされていないものも含めた)求めに対して、「応答する用意があること(response-ability)」を意味します。相手の必要性を察知し、それに応じようとする、自発的で主体的な態度のことです。

尊敬(Respect)

尊敬とは、相手をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを認めることです。自分の都合の良いように相手を操作したり、理想の型にはめようとしたりせず、その人自身のやり方で成長していくことへの敬意に基づいています。これは、私たちが前回探求した「見えないものを『見る』力」とも深く関連しています。

知(Knowledge)

愛するためには、相手を知る必要があります。しかし、それは相手に関する情報を集め、分析するような外面的な知ではありません。相手の立場に立ち、その人の内側から世界を感じようと試みる、共感的な知のことです。この知もまた、尊敬の念がなければ、相手を支配するための道具になりかねません。

「与える」ことは、最も豊かな自己実現である

フロムは、「与える」という行為は、何かを「失う」ことではないと強調します。むしろ、与えるという行為の中にこそ、最高の喜びと自己実現があると説きます。

自分の中に息づく喜び、関心、知識、ユーモアといった生命力を他者に与える時、私たちは自分自身が生き生きとして、豊かであることを実感します。そして、与えることを通じて、相手の中にも同じような生命力を喚起することができるのです。この与えるという経験そのものが、与える側にとって何よりの報酬となります。

これは、自分を犠牲にして他者に尽くす自己犠牲とは根本的に異なります。自分の生命力を高め、その内なる充実感の中から、溢れ出すものを他者と分かち合う。この能動的な循環こそが、他者からの承認を必要としない、自立した精神の土台を築くのです。

まとめ

現代社会は、私たちに「与えられる」ことの価値を説き、受け身の姿勢を促しがちです。しかし、他者の評価に依存する限り、私たちの心が永続的に満たされることは難しいかもしれません。

エーリッヒ・フロムの思想は、愛を受動的な感情から、私たちが日々実践し、磨き上げていくことができる能動的な「技術」へと捉え直す視点を与えてくれます。配慮、責任、尊敬、知をもって他者に関心を寄せ、「与える」という行為を実践していく。そのプロセスの中にこそ、他者の評価に左右されることのない、豊かで主体的な生の喜びが見出せるのではないでしょうか。

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この記事を書いた人

サットヴァ(https://x.com/lifepf00)

『人生とポートフォリオ』という思考法で、心の幸福と現実の豊かさのバランスを追求する探求者。コンサルタント(年収1,500万円超/1日4時間労働)の顔を持つ傍ら、音楽・執筆・AI開発といった創作活動に没頭。社会や他者と双方が心地よい距離感を保つ生き方を探求。

この発信が、あなたの「本当の人生」が始まるきっかけとなれば幸いです。

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