『火垂るの墓』を観終えた後、私たちの心に残るのは、単なる「悲しみ」だけでしょうか。もちろん涙は流れます。しかしそれと同時に、胸の奥に鉛のような重たい塊が居座り続ける、あの独特の「もやもや」とした感覚。多くの人がこの感覚を共有しているのではないでしょうか。
前回の記事で、私たちはこの作品が単純な「反戦映画」ではない可能性を探りました。その結論を踏まえるならば、この「もやもや」の正体は、この物語が私たち自身の内面を容赦なく映し出す「鏡」として機能しているからだ、と言えるのかもしれません。
なぜ私たちは物語に「悪役」を求めてしまうのか
人間の脳は、物事を理解する際、無意識に「分かりやすい物語」を求めます。そこには明確な原因と結果があり、善と悪が対立し、悲劇には必ず「悪役」が存在します。私たちは、その悪役を特定し断罪することで、物語を理解し、感情を整理しようとする傾向があります。
しかし、『火垂るの墓』には、その肝心の「悪役」が見当たりません。
西宮のおばさんは、確かに清太たちに厳しく接しました。しかし、彼女もまた戦争で夫を亡くし、自分の子供たちを抱え、日々の恐怖と欠乏の中で必死に生きていた一人の人間です。清太に米びつを別にされた時、彼女もまた傷ついていたのかもしれません。彼女を絶対悪として断罪するには、あまりにも人間的なのです。
この「断罪できる相手がいない」という状況が、私たちの脳が求める物語の定型を裏切り、一種の認知的不協和、つまり「もやもや」とした居心地の悪さを生み出す第一の要因です。
あなたの心に芽生える「もっとこうすれば」という批判
この「もやもや」から逃れるため、私たちは無意識に、物語の登場人物の誰かに責任の所在を求めてしまいます。心の中で、誰かに向かって指を差してしまうのです。
- 「なぜ清太は、あの時プライドを捨てて頭を下げられなかったんだ」
- 「もっと世渡り上手く立ち回れたはずだ」
- 「おばさんも、もう少しだけ優しくしてあげられなかったのか」
あなたも、そう考えたことはありませんか。 この、誰かの行動に対して「もっとこうすればよかったのに」と批評し、責めてしまう気持ち。それこそが、「もやもや」の正体であり、高畑監督が仕掛けた巧妙な心理的構造への入り口なのです。
高畑勲の「鏡」― 鑑賞者を当事者にするという仕掛け
ここが、この物語の最も核心的な部分です。 私たちが、安全な現代から過去を振り返り、登場人物の誰かを「責めたい」と思うその心の動き。それこそが、戦時中に「あいつは非国民だ」「働かない者は許せない」と誰かを指差し、異質なものを排除しようとした、あの**「社会の空気」の源流と、本質的に同じもの**だとしたらどうでしょうか。
私たちは、この物語を鑑賞し、批評している「外部の安全な人間」のつもりでいます。しかし、高畑監督の仕掛けた「鏡」は、そんな安全な立ち位置を許してはくれません。
- 私たちが「清太は甘い」と断罪した瞬間、私たちは、彼を追い詰めた大人たちと同じ視点に立っています。
- 私たちが「おばさんは冷酷だ」と断罪した瞬間、私たちは、複雑な状況を無視して誰かを単純な悪役に仕立て上げる、思考停止に陥っています。
この映画は、観客である私たちにこう問いかけてくるのです。 「あなたも、状況次第で、その“空気”の一部となり、誰かを追い詰める側になりうるのですよ」と。
この不都合な真実を突きつけられるからこそ、私たちはもやもяするのです。敵を探しているつもりが、鏡の向こうにいたのは、他ならぬ自分自身だった。その事実に気づいてしまった、あるいは無意識に気づかないようにしているからこそ、心がかき乱されるのです。
まとめ
『火垂るの墓』が私たちに残す「もやもや」は、決して不快なだけの感情ではありません。それは、自分の心の中に潜む「誰かを断罪したい欲求」や「同調圧力への弱さ」に気づかせてくれる、誠実で、価値ある問いかけです。
その「もやもや」から目を背けず、じっと向き合うこと。それこそが、高畑監督が本当に望んだ、この偉大な作品との対話の方法なのかもしれません。この4回にわたる考察の旅が、あなたがこの作品と、そしてあなた自身と向き合うための一助となれば、これほど嬉しいことはありません。
『火垂るの墓』の考察を、さらに深めるために
今回のコンテンツ以外にも『火垂るの墓』について多角的に分析をしています。これらの考察記事を、その関係性が一目で分かるように整理した「まとめ記事」をご用意しました。以下のリンクよりご参照ください。









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