経済的自立と早期退職を目指す「FIRE」という考え方が、一つのライフスタイルとして認知されつつあります。その計画の中核をなすのが「4%ルール」です。これは、年間生活費の25倍の資産を築き、毎年その4%を取り崩して生活すれば、資産を枯渇させることなく暮らせるという、シンプルで明確な指針です。
この分かりやすさから、4%ルールはFIREを目指す多くの人々にとって、目標設定の具体的な基準となっています。しかし、当メディアが探求するのは、あらゆる前提を検証し、物事の本質を多角的に捉えることです。このルールは、現代の日本で生活する私たちにとって、普遍的に適用できるのでしょうか。
本記事では、4%ルールの理論的な背景と、現代日本において直面する現実的な課題を分析します。FIREという目標を、より確かな個人の資産計画へと落とし込むための、思考の土台を提供します。
4%ルールとは何か?:FIRE達成に向けた資産取り崩しの計算式
はじめに、4%ルールの基本を確認します。これは、「引退後の年間支出を、投資元本の4%以内で賄う」という資産取り崩しに関する考え方です。逆算すると、目標とすべき資産額は「年間支出 × 25」という式で算出できます。
例えば、年間支出が400万円であれば、目標資産は1億円となります。年間300万円で生活できるのであれば、7500万円が目標額です。この計算式の利点は、FIREという長期的な目標を、具体的な数値に落とし込める点にあります。漠然とした計画が明確な目標に変わることで、資産形成への意欲が高まることが期待できます。
多くの人がこのルールに関心を寄せるのは、複雑な金融の世界において、一つの分かりやすい指標を与えてくれることが一因と考えられます。
ルールの背後にある「トリニティ・スタディ」という根拠
4%ルールは、単なる経験則ではありません。その理論的支柱となっているのが、1998年に米国トリニティ大学の教授グループが発表した「トリニティ・スタディ」という研究です。
この研究は、1926年から1995年までの米国市場の歴史的データを基に、株式と債券で構成されたポートフォリオから一定率を毎年引き出した場合、資産が何年間持続するかをシミュレーションしたものです。その結果、株式比率の高いポートフォリオから年率4%を引き出す場合、30年後も資産が残っている確率が非常に高いことが示されました。
ここで重要なのは、これが米国の過去のデータに基づいた分析であるという点です。つまり、20世紀の米国経済が経験した成長とインフレ環境下において、4%という引き出し率が有効であったことを示唆する研究です。投資における基本的な前提として、過去の実績が未来の成果を保証するものではない点は、常に留意する必要があります。
現代日本で4%ルールを適用する際の3つの論点
トリニティ・スタディという理論的な裏付けを持つ4%ルールですが、これを現代の日本で生活する私たちがそのまま適用しようとすると、いくつかの考慮すべき論点に直面します。ここでは、3つの視点から考察します。
論点1:市場環境の違い ― 米国と日本の成長性の非対称性
トリニティ・スタディの前提は、20世紀に世界経済を牽引した米国の株式市場です。S&P500に代表される米国株は、長期的に成長を続けてきました。
一方、日本の市場は、長期にわたる低成長とデフレを経験した期間があります。もちろん、近年では多くの人が全世界株式や米国株式のインデックスファンドを通じて資産形成を行っています。これは、日本国内の成長性だけに依存せず、グローバルな成長の恩恵を受けようとする合理的な戦略です。
しかし、これは同時に、私たちの資産が日本円という生活基盤の通貨とは異なる、米ドルを中心とした経済圏の動向に依存することを意味します。米国の成長が今後も歴史的トレンドと同様に続くか否かは、誰にも断定できません。前提となる市場環境の違いは、常に意識しておくべき要素です。
論点2:為替変動リスク ― 円貨での生活における不確定要素
米国株を中心としたポートフォリオを組む場合、資産価値の評価は主に米ドル建てで行われます。しかし、私たちが日本で生活する以上、支出は日本円で発生します。この二つの通貨を繋ぐ為替レートは、FIRE後の生活の安定性を左右する大きな変動要因となります。
例えば、円安が進行すると、ドル建て資産の円換算価値は増加します。しかし、輸入品価格の上昇などを通じて、円で測った生活コスト自体も増加する可能性があります。逆に円高が進行すれば、円換算での資産価値は減少し、想定以上の資産を取り崩さなければ生活水準を維持できなくなるかもしれません。
このように、為替の変動は、計画の前提となる「年間支出」と「資産価値」の両方に影響を与えます。長期にわたるリタイア生活において、この不確定要素は考慮すべきリスクです。
論点3:インフレと税制 ― 見過ごされがちなコスト
4%ルールを検討する上で、インフレと税金は極めて重要な要素です。トリニティ・スタディでは過去のインフレ率も考慮されていますが、今後の日本のインフレがどの程度進むかは不透明です。想定を上回るインフレは、実質的な取り崩し率を上昇させ、計画の前提に影響を与える可能性があります。
さらに見過ごされがちなのが、税金の存在です。資産を取り崩して得た利益(譲渡所得や配当所得)に対して、日本では現在、約20%の税金が課されます。
年間400万円の生活費が必要だと仮定します。この400万円が全て課税対象の利益から支払われる場合、手元に400万円を残すためには、税引き前で500万円(400万円 ÷ 0.8)を引き出す必要があります。もし資産総額が1億円であれば、これは当初の計画である4%を上回り、実質的な取り崩し率が5%に達することを意味します。この差は、資産の持続性に影響を与える可能性があります。
ポートフォリオ思考で構築する、あなただけの戦略
これらの論点を踏まえると、4%ルールは有用ではないのでしょうか。必ずしもそうではありません。4%ルールを「絶対の公式」ではなく「有用な参考指標」として捉え直すことで、新たな視点が開けます。
ここで重要になるのが、当メディアが提唱する「人生のポートフォリオ思考」です。私たちの資産は、金融資産だけではありません。人生という時間の中で、私たちは「時間」「健康」「人間関係」「情熱」といった、多様な資本を運用していると考えることができます。
FIREの概念を「完全なリタイア」という二元論で捉えるのではなく、「経済的自立を達成し、労働のあり方を自ら選択できる状態」と再定義することも一つの方法です。
例えば、取り崩し率をより保守的な3%に設定し、不足分を心身への負担が少ない労働で補う「サイドFIRE」という考え方があります。それは、自身の関心を活かした小規模な事業かもしれませんし、社会との接点を保つための短時間労働かもしれません。
これは、金融資産への依存度を調整し、収入源を複数化することで、計画全体のリスクを低減させるアプローチです。4%ルールという一つの指標に固執するのではなく、自分自身のリスク許容度や価値観に応じて、柔軟に個々の戦略を構築していく。それが、ポートフォリオ思考の一つの側面です。
まとめ
4%ルールは、FIREという目標達成への道のりを示す、有用な指標です。その存在が、多くの人に経済的自立への道筋を具体的に示してきたという点は評価できます。
しかし、その指標の基になった研究は、現代の日本とは異なる環境で行われたものです。私たちは「市場環境の違い」「為替リスク」「税金」といった現実的な要素を考慮し、自分たちの状況に合わせて計画を調整していく必要があります。
最終的に目指すべきは、既成のルールに自分を適合させることではないかもしれません。ルールを深く理解した上で、自分自身の価値観、ライフプラン、リスク許容度に合わせて、最適な戦略を構築することです。
FIREがもたらす価値は、経済的な制約からの解放に留まらない可能性があります。それは、人生の選択肢を自らの手に取り戻し、「時間」という最も貴重な資産の使い道を、自ら決定する自由を得ることにあると考えることができます。この記事が、そのための現実的で堅実な一歩を踏み出すきっかけとなれば幸いです。
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