ブルデューの「ハビトゥス」とゴフマンの「演技」から考える、身体と自己の社会学

ふとした瞬間に、自分の仕草や話し方が特定の誰かに似ていると感じたことはないでしょうか。あるいは、会議室での自分と親しい友人と話す自分とでは、姿勢や声のトーンが異なることに気づいた経験はないでしょうか。

私たちは、自分の身体は自己の意志で自由に動かしていると考えています。しかし、その動きの一つひとつが、実は目に見えない社会的な力によって深く影響されているとしたら、どうでしょう。

このメディアが探求する大きなテーマ、『社会システムと個人の関係性の探求』の一環として、本記事では私たちの最も私的な領域である「身体」に焦点を当てます。社会学者ピエール・ブルデューが提唱した「ハビトゥス」と、アーヴィング・ゴフマンの「演技」という二つの理論を手がかりに、私たちの身体と自己の関係性を問い直します。

目次

身体に形成される社会的な傾向性:ブルデューの「ハビトゥス」

私たちの身体のあり方を考える上で、まず向き合うべき概念の一つが、フランスの社会学者ピエール・ブルデューが提示した「ハビトゥス」です。これは、私たちの身体が社会的な構造といかに深く結びついているかを解き明かす鍵となります。

ハビトゥスとは何か

ハビトゥスとは、個人の経験、特に育った社会階級や教育環境によって形成される、無意識の思考・知覚・行動のシステムを指します。それは、後から学習する知識というよりは、幼少期から反復される経験を通じて身体に形成されていく傾向性です。

例えば、食事の作法、歩き方、声の出し方、休日の過ごし方、さらには何に価値を見出し、何を「美しい」と感じるかといった美的感覚に至るまで、ハビトゥスは私たちの存在の隅々にまで浸透しています。それは非常に根深く、当人にとってはあまりにも自然で当たり前なため、その存在自体を意識することはほとんどありません。

象徴的暴力としてのハビトゥス

ブルデューは、このハビトゥスが「象徴的暴力」として機能する可能性を指摘しました。社会には、支配的な階級のハビトゥス(例えば、特定の芸術を嗜み、洗練された言葉遣いをする、といった傾向)が、「正統な文化」や「優れた趣味」として暗黙のうちに位置づけられている場合があります。

この価値基準が社会全体に浸透すると、異なるハビトゥスを持つ人々は、物理的な強制力を伴わずとも、自らの文化や身体性を「劣ったもの」として内面化させられてしまう可能性があります。これが象徴的暴力です。当メディアが考察する「権力」とは、必ずしも物理的な支配だけを意味しません。ハビトゥスのように、人々の価値観や自己認識に働きかける、より巧妙で見えざる力としても存在するのです。

状況が求める役割を演じる:ゴフマンの「印象操作」

ブルデューのハビトゥスが、社会構造によって身体の傾向性が形成される側面を照らし出すのに対し、もう一人の社会学者アーヴィング・ゴフマンは、より状況に応じた身体のあり方に光を当てます。

ドラマツルギーという視点

ゴフマンは「ドラマツルギー」という視点から社会を分析しました。これは、社会生活を一つの「劇場」に、そして人々をその舞台上で役割を演じる「役者」になぞらえる分析方法です。私たちは他者と関わるあらゆる場面で、特定の印象を相手に与えるために、意識的あるいは無意識的に「演技」を行っているとゴフマンは考えます。

この演技は、舞台裏(プライベートな空間)でのリラックスした振る舞いとは区別されます。例えば、職場では有能なプロフェッショナルとして、家庭では良き親として、友人関係では気さくな仲間として、それぞれの社会的状況(舞台)が求める役割を演じ分けているのです。

印象操作と身体の役割

この「演技」において、私たちの身体は極めて重要な道具となります。ゴフマンが「印象操作」と呼んだこのプロセスでは、服装や髪型といった外見、姿勢、表情、視線の配り方、声のトーンや話す速度といった身体的な要素が、意図的に管理・調整されます。

面接の場面で背筋を伸ばし、明瞭に話す。重要なプレゼンテーションで落ち着いた声色を保つ。これらはすべて、望ましい自己像を演出し、社会的相互作用を円滑に進めるための、身体を用いた戦略的な振る舞いと解釈できます。

ハビトゥスと演技の交差点:構造と主体の関係性

ブルデューのハビトゥスとゴフマンの演技。一見すると、前者は社会構造による身体の規定を、後者は個人の主体的な選択を強調しており、対立する理論のようにも見えます。しかし、両者を重ね合わせることで、私たちの身体をめぐる力学はより立体的に見えてきます。

身体に影響を与える力の源泉

二つの理論における、身体を動かす力の源泉を比較してみましょう。

ブルデューのハビトゥスにおいて、力の源泉は個人の出自である社会構造(階級)にあります。身体は、変えることが容易ではない傾向性を深く形成された、いわば社会の記憶媒体です。その作用は主に無意識の領域で起こります。

一方、ゴフマンの演技において、力の源泉は目の前の社会的状況(相互作用)にあります。身体は、その場の要請に応じて役割を「使い分ける」ための柔軟な道具です。そこには、状況を読み解き、振る舞いを選択するという意識的な判断が介在します。

自己の主体性はどこにあるのか

では、私たちの身体に主体性や自由は存在するのでしょうか。その答えは、両理論の間に見出すことができます。私たちの身体は、ブルデューが言うように、生まれ育った環境によって形成されたハビトゥスという無意識の傾向性によって深く影響されています。私たちは、この傾向性から完全に自由になることは難しいかもしれません。

しかし、ゴフマンが示したように、私たちは特定の状況に応じて「印象操作」を行うことが可能です。つまり、自らのハビトゥスを客観的に認識し、特定の社会的舞台においては、意図的に異なる振る舞いを「演技」する主体性も持ち合わせています。無意識の領域に根ざす傾向性と、意識的な選択である演技は、私たちの身体の中で共存していると考えることができます。

主体的な身体との向き合い方

ブルデューとゴフマンの理論を通して見えてくるのは、私たちの身体が、個人の所有物であると同時に、様々な社会的な力学が交差する「場」であるという事実です。この認識は、私たちを無力感に導くものではなく、自らの身体と意識的に向き合うための出発点となります。

自己客観視という第一歩

まず考えられるのは、自分の身体を客観的に観察することです。自分の立ち居振る舞い、話し方の癖、好んで選ぶ服装、心地よいと感じる人との距離感。それらが、どのような社会的背景(ハビトゥス)に由来する可能性があるのかを、評価抜きに観察してみます。

同時に、自分がどのような状況で、どのような「演技」をしているのかを意識化することも重要です。職場で、家庭で、友人の前で、自分はどのような身体の使い方をしているか。その使い分けは、どのような印象を操作するためなのか。この自己客観視が、無意識の力学から距離をとり、自律性を高めるための一歩となる可能性があります。

意識的な身体性の探求へ

ハビトゥスを完全に消し去ることは困難ですし、その必要もないかもしれません。重要なのは、無意識の領域にあった身体のあり方を意識の光の下へと引き出し、その上で自らの身体の使い方を主体的に選択していくことです。

これは、当メディアが提唱する、人生を構成する資産を主体的に管理する考え方にも通じます。身体は、あらゆる活動の基盤となる最も重要な「健康資産」の一部です。その使い方を意識的に選択し、調整することは、人生全体の質を高めることに直結します。社会によって形成された身体の傾向性を理解し、状況に応じて役割を演じる自分を認め、その上でどのような身体のあり方を選択していくか。そうした意識的な探求を検討してみてはいかがでしょうか。

まとめ

本記事では、私たちの身体が個人の意志だけで動いているのではなく、社会的な力学に深く影響されていることを、ブルデューの「ハビトゥス」とゴフマンの「演技」という二つの概念から解き明かしました。

  • 私たちの身体には、社会階級などの出自によって形成される無意識の行動傾向「ハビトゥス」が存在します。これは見えざる「権力」の一形態である「象徴的暴力」として機能する可能性があります。
  • 一方で、私たちは社会生活の様々な場面で、他者への印象を操作するために、身体を用いて意識的に「演技」をしています。これはゴフマンが「ドラマツルギー」と呼んだ、主体的で戦略的な行為です。
  • ハビトゥスという社会構造に影響されながらも、私たちは演技によって振る舞いを選択する余地を持っています。この二つの力が、私たちの身体の中で作用しています。
  • これらの理論を通して自らの身体を客観的に観察し、その使い方を意識化すること。それが、社会的な影響を理解し、自己の身体性を主体的に捉え直すための、実践的なアプローチの一つとなるでしょう。
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この記事を書いた人

サットヴァ(https://x.com/lifepf00)

『人生とポートフォリオ』という思考法で、心の幸福と現実の豊かさのバランスを追求する探求者。コンサルタント(年収1,500万円超/1日4時間労働)の顔を持つ傍ら、音楽・執筆・AI開発といった創作活動に没頭。社会や他者と双方が心地よい距離感を保つ生き方を探求。

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