学校や職場、あるいは友人との集まりの中で、特定の「キャラ」を演じている自分に気づき、窮屈さを感じたという経験はないでしょうか。「本当の自分」と、周囲から期待される役割との間に距離を感じる。この感覚は、現代を生きる多くの人が共有する、静かな課題と言えるかもしれません。
なぜ、私たちは無意識のうちに「キャラ」を演じてしまうのでしょうか。そして、なぜ時として、その「キャラを演じる」ことに「疲れる」という感覚を抱いてしまうのでしょうか。
本稿では、この根源的な問いを考察するため、二人の社会学者の視点を用います。一人は、社会を一つの舞台とみなし、人々の相互作用を分析したアーヴィング・ゴフマン。もう一人は、私たちの選択に影響を与える「見えざる力」の存在を分析したピエール・ブルデューです。
彼らの思索を手がかりに、「キャラ」という現象を解明することは、当メディア「人生とポートフォリオ」が考察を続ける大きなテーマ、すなわち、自己に影響を与える見えざる力の構造というテーマにも繋がります。それでは、自己と「キャラ」の関係性について考察を進めていきます。
「キャラ」を演じる私たち:ゴフマンの役割演技という視点
まず、私たちが「キャラ」を演じるという行為そのものを、肯定的な側面から捉えてみましょう。社会学者のアーヴィング・ゴフマンは、「ドラマツルギー」という独自の理論を用いて、私たちの社会生活を分析しました。
舞台としての社会と、個人という演じ手
ゴフマンの理論によれば、私たちの日常的なコミュニケーションは、演劇の舞台に喩えられます。私たちは皆、社会という舞台に立つ演じ手であり、状況に応じて様々な「役割(ロール)」を演じ分けているとされます。
例えば、会社では「責任感の強い部下」という役割を、家庭では「頼りがいのある親」という役割を、そして友人との間では「聞き上手な友人」という役割を、私たちはごく自然に演じています。これが、ゴフマンの言う「役割演技」です。
この視点に立てば、「キャラを演じる」ことは、不誠実な行為とは限りません。むしろ、社会的な存在である人間が、他者と関わりながら生きていく上で不可欠な、高度なコミュニケーション技術であると理解できます。
「キャラ」がもたらす円滑なコミュニケーション
では、なぜ私たちは役割を演じるのでしょうか。その最も大きな理由は、コミュニケーションを円滑にするためです。
相手がどのような「キャラ」を演じているかが分かれば、私たちはその後の展開をある程度予測し、適切に応対することができます。上司が「厳格な指導者」というキャラを演じている時、私たちは部下としてそれにふさわしい態度で接するでしょう。これにより、無用な誤解や衝突の可能性が低減され、組織や集団の活動は円滑に進みます。
このように、ゴフマンの理論は、「キャラ」が持つ機能的な側面を明確に示しています。それは、私たちが社会生活を円滑に営むための、有用な「道具」として理解することができるのです。
なぜ「キャラ」を演じることに疲れるのか?ブルデューの象徴的暴力
ゴフマンの視点は、「キャラ」の持つ有用な側面を教えてくれます。しかし、もしその「キャラ」が、自分で主体的に選んだものではなかったとしたらどうでしょうか。ここに、私たちが「キャラを演じることに疲れる」と感じる問題の要因が存在します。この問題を解明する鍵となるのが、フランスの社会学者ピエール・ブルデューが提示した「象徴的暴力」という概念です。
役割から降りられない状況
ブルデューの理論は、ゴフマンが示した舞台の背景にある力学を分析します。象徴的暴力とは、物理的な強制力を伴わず、影響を受ける側が自らその構造を内面化してしまうような、認識しにくい権力作用を指します。
「キャラ」の問題に当てはめてみましょう。私たちは、社会や所属する集団から、「こうあるべきだ」という暗黙の期待を受けています。例えば、「男性は弱音を吐くべきではない」「女性は常に細やかな気配りをすべきだ」といった、性別に基づいた期待。あるいは、「この会社の社員なら、自己犠牲を厭わないのが当然だ」といった、組織文化に根差した規範などです。
これらの「あるべき姿」は、私たちの身体や思考の様式(ブルデューはこれを「ハビトゥス」と呼びました)に深く浸透し、特定の「キャラ」を演じることを半ば自動的に選択させてしまう可能性があります。
「あるべき姿」という見えざる圧力
この象徴的暴力の作用の特徴は、それが「暴力」として認識されにくい点にあります。私たちは、社会的な期待に沿った「キャラ」を演じることを、自分自身の自由な意志で選択したかのように認識する傾向があります。
しかし、その役割から少しでも逸脱しようとすると、周囲からの否定的な反応や、あるいは内面的な罪悪感や不安に直面することがあります。その結果、私たちはその役割から逸脱することをためらい、窮屈さを感じながらも、その「キャラ」を演じ続けることになり得るのです。
「本当の自分」という感覚の揺らぎ
この状態が続くと、演じている「キャラ」と、自分が本来持っていると感じる感覚との間に、乖離が生じる可能性があります。そして、その乖離を埋めるために、多くの精神的エネルギーを消耗することが考えられます。
これこそが、「キャラを演じることに疲れる」という感覚の一因ではないでしょうか。これは、社会的な期待によって自己のあり方が制約され、その窮屈さから生じる精神的な負荷の表れと考えることができます。この見えざる力こそが、当メディアが考察の対象とする「権力」の一つの側面です。
自己の多面性と、「道具」としての「キャラ」の再認識
では、私たちはこの窮屈さから、どのようにして自由になれるのでしょうか。その答えは、ゴフマンとブルデュー、二人の視点を対立させるのではなく、統合的に捉え直すことで見えてくる可能性があります。
ゴフマンとブルデューの視点を統合する
ここまでの議論を整理すると、「キャラ」には二つの側面があることが示唆されます。一つは、ゴフマンが示した、円滑な社会生活のための有用な「道具」としての側面。もう一つは、ブルデューが指摘した、私たちの自己認識を制約し得る「権力」としての側面です。
問題は、「キャラを演じる」という行為そのものではないと考えられます。問題となり得るのは、特定の「キャラ」が社会的圧力によって固定化され、それ以外の自己表現の可能性が制限されてしまう状況です。
「本当の自分」は一つではない
この課題に対処するために、私たちはまず、「本当の自分」という考え方そのものを見直す必要があるかもしれません。私たちは、どこかに存在する唯一無二で固定的な「本当の自分」という実体を想定してしまいがちです。
しかし、人間の自己や内面は、本来もっと多面的で、流動的なものであると考えることもできます。親としての自分、仕事仲間としての自分、一人の趣味人としての自分。それらは全て、状況に応じて現れるあなた自身の、一つの側面です。ある場面で快活に振る舞い、別の場面で思慮深くなることは、矛盾ではなく、人間性の豊かさの表れと捉えることも可能です。
「キャラ」を主体的に選択するということ
この自己の多面性という視点に立つとき、「キャラ」の持つ意味合いは大きく変わります。それは、自己を制約するものではなくなります。自己の多様な側面を、状況に応じて表現するための創造的な手段となり得るのです。
重要なのは、どの場面で、どの「キャラ(自己の側面)」を、なぜ用いるのかを、自分自身で意識し、主体的に選択することです。ある「キャラ」を演じていて疲れを感じるなら、「今は、この役割を少し休もう」「ここでは、別の側面を出してみよう」と判断する。その選択の自由を意識することが、何よりも重要です。
まとめ
本稿では、「なぜ、私たちは『キャラ』を演じてしまうのか?」という問いから出発し、ゴフマンとブルデューの理論を手がかりに、そのメカニズムと課題を考察してきました。
私たちの社会生活において、「キャラ」は円滑なコミュニケーションを可能にする有用な道具です(ゴフマン)。しかし、その「キャラ」が社会的な圧力によって無意識のうちに強制されるとき、それは私たちの自己認識を制約する「象徴的暴力」となり、私たちは「キャラを演じることに疲れる」という感覚を抱く可能性があります(ブルデュー)。
この課題に対処する鍵は、「本当の自分は一つである」という固定観念から自由になり、自己が本来有する多面性を肯定することにあります。そして、「キャラ」を、自己を制約するものとしてではなく、自己の多様性を表現するための有用な手段として、主体的に用いるという視点を持つことです。
どの手段を、いつ、どのように用いるか。その選択は、個人の主体性に委ねられています。この主体的な選択の意識こそが、私たちの日常に作用する見えざる力と建設的に向き合い、自分自身の人生というポートフォリオを設計していくための、確かな一歩となるでしょう。









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