私たちは都市の音を「騒音」という枠組みで捉える傾向があります。自動車の警笛、建設機械の稼働音、人々の雑踏。それらは日常生活において、意識的に遠ざけたい対象として認識されがちです。しかし、この音響的な環境の中に、意図されずして生まれた周期性やパターンが存在するとしたら、どのように捉えることができるでしょうか。
本稿では、超高層ビル群を風が通過する際に発生する特有の音、いわゆる風切り音に焦点を当てます。この音を、都市という環境が生成する特有の音響現象として分析し、また、その音が人々の心理に作用し、時に都市伝説のような文化的解釈を生み出す背景について考察します。
日常の風景に潜む構造を理解し、新たな意味を見出すこのアプローチは、当メディア『人生とポートフォリオ』が探求する、既存の価値観から距離を置き、個人にとっての豊かさを見つけるための視点と関連しています。
都市の音風景(サウンドスケープ)という概念
都市の音を多角的に理解するためには、「騒音」という評価的なレッテルを一時的に保留し、「サウンドスケープ」という概念から考察を始めることが有効です。
「騒音」から「音の風景」へ
サウンドスケープとは、カナダの作曲家であるR.マリー・シェーファーによって提唱された概念です。これは、音を単なる物理的な刺激の集合としてではなく、人間と環境との関係性の中で意味を持つ「音の風景」として捉える考え方を指します。鳥のさえずりや川のせせらぎといった自然環境音と、自動車の走行音や機械音といった人工環境音。私たちはこれらを対比的に捉える傾向がありますが、サウンドスケープという視点はその境界を相対化します。全ての音は、それが存在する文脈において意味を持つ、風景の構成要素であると捉えます。
非意図的な周期性の発見
当メディアのテーマの一つである『打楽器の文化人類学』では、人間が意図して創造する音楽やリズムだけでなく、環境との相互作用の中で自然発生する非意図的な周期性にも注目します。この視点に立つと、一見無秩序に聞こえる都市の音響も、多様な周期やパターンを持つ現象の集合体として分析することが可能です。その中でも特に興味深い対象が、都市の巨大な構造物が生み出す音、すなわち高層ビルの風切り音です。
高層ビルから発生する音のメカニズム
なぜ高層ビル群では、特有の風切り音が発生するのでしょうか。その背景には、流体力学の原理に基づいた物理現象が存在します。
カルマン渦とエオルス音
高層ビルのような柱状の構造物に風が当たると、その風下側には「カルマン渦」と呼ばれる、左右交互に渦が発生する現象が起こります。この渦が一定の周期で放出されることに伴い、周囲の空気圧が変動し、特有の音が発生します。これが「エオルス音(Aeolian sound)」と呼ばれる、風によって音が発生する原理です。電線が風を受けて音を発するのも、基本的には同じ原理に基づいています。ビルが巨大であり、かつ複数隣接することで、その音は増幅され、複雑な音響特性を持つことがあります。
人工構造物が生成する環境音
私たちは、森林の木々を風が通過する音や、洞窟内で反響する風の音を、古くから自然現象の一部として認識してきました。では、人間が構築した巨大な構造物を通過する風の音は、どのように捉えることができるでしょうか。これもまた、都市環境が生み出す特有の環境音の一種として位置づける視点も考えられます。この視点は、自然と人工を単純に対比する考え方を超えて、私たちが生活する都市環境をより深く理解するための一助となります。
特有の音が喚起する心理的影響と文化的解釈
科学的には説明可能な高層ビルの風切り音ですが、その音が人々の心理に与える影響は一様ではありません。そして、その心理的な作用が、都市伝説という文化的な現象を生み出す素地となることもありました。
音が喚起する基本的な心理反応
人間の聴覚は、進化の過程で、特定の音響特性に対して敏感に反応するように形成されてきました。特に、低周波の持続音や不規則な音は、危険の可能性を示唆する信号として認識されやすかったため、不安感を喚起する可能性があります。高層ビルの風切り音は、風速や建物の配置によって、まさにこのような音響特性を持つことがあります。静かな夜間に予期せず聞こえるその音は、人々の基本的な感情に影響を与えることがあると考えられます。
「聞こえるはずのない音」という解釈
この特有の音の発生源が一般的に知られていなかった時代、人々はその音に対して意味や物語を付与しようと試みました。原因が不明な現象に直面した際、人間はそれを説明可能な物語に当てはめることで、自身の不安を低減させようとする心理が働くことがあります。こうして、「高層ビルの上層階から聞こえる女性の声」や「無人のはずのオフィスから聞こえる物音」といった、いくつかの都市伝説が生まれました。高層ビルの風切り音は、都市空間の匿名性や静寂と結びつき、人々の解釈の中で超自然的な物語へと変化していったと考えられます。
都市の音響環境との関わり方
高層ビルの風切り音をめぐる考察は、私たちが日常的に接する「音」との関わり方について、重要な示唆を与えてくれます。
騒音から情報、そして文化的背景へ
ここまで見てきたように、高層ビルの風切り音は、単一的な騒音ではありません。それは、カルマン渦という物理現象であり、私たちの心理に影響を与える可能性のある刺激であり、都市伝説という文化的産物を生み出すきっかけでもあります。このように、一つの音には多層的な情報と文化的背景が含まれていると考えられます。音の正体や背景を理解することは、それに対する漠然とした不安を知的な探求心へと転換させるきっかけとなり得ます。
「聞く」から「聴く」への意識の転換
私たちは日々、無数の音を無意識に「聞いて」いますが、意識を向けて「聴く」ことで、世界に対する認識が変化する可能性があります。騒音として処理していた音の中に、都市の構造、天候の変化、人々の活動が反映された周期性やパターンを発見できるかもしれません。刺激に対して敏感な特性を持つ人々にとって、音の正体を構造的に理解することは、制御が難しいと感じる刺激と向き合うための一つの有効な手段となり得ます。これは、音を排除するのではなく、音との関係性を再構築する試みと言えるでしょう。
まとめ
本稿では、高層ビルの風切り音という現象を手がかりに、都市の音風景が持つ多層的な意味について考察しました。
- 都市の音は単なる騒音ではなく、人間と環境の関係性を映し出す「サウンドスケープ」として捉えることができます。
- 高層ビルの風切り音は、物理現象によって生成される、都市環境に特有の環境音として位置づけることができます。
- この音は、私たちの基本的な心理反応に影響を与え、時に「都市伝説」のような文化的な解釈の源泉となってきました。
この記事を読み終えた後、次に都市の喧騒の中を歩く際、少し意識的に音に注意を向けてみてはいかがでしょうか。これまで一括りにしていた音の中に、都市の構造が生み出すダイナミックな音響や、人々の営みが織りなす微細なパターンが認識できるかもしれません。
人間と音、そして周期性の関係を探求する『打楽器の文化人類学』の視点は、このように、私たちが生きる世界の解像度を高め、日常の中に新たな発見をもたらすための視点を提供します。









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