経済的な不安、例えば「路頭に迷うかもしれない」といった恐怖心は、人々が仕事に没頭する上で強力な動機付けとなります。この不安を解消するために資産形成やキャリア構築に邁進し、ある日、ついに目標としていた経済的な安定を手にする。それは大きな達成であるはずです。
しかし、その安定と引き換えに、予期せぬ「寂しさ」や「空虚感」といった、これまで感じなかった「心のきしみ」が訪れることがあります。
この現象の一因として、心理的な構造の変化が考えられます。仕事への没頭がもたらす興奮や達成感は、脳内物質で言えばドーパミン的な性質を持つものです。この強力な感覚が、これまで「安心感」や「他者との深いつながり」(オキシトシン的な充足)といった、より静的で本質的な欲求の欠如を覆い隠していた可能性があります。
経済的な不安という大きなノイズが消え去ったことで、これまでその下に隠れていた、より微細な「きしみ」がはっきりと知覚できるようになった、という見方ができます。
「仕事への没頭」が先送りしていたもの
「不安の解消」という目的は、人生において最も優先度の高い「大義名分」の一つです。この大義名分がある限り、私たちは他の問題を脇に置いて、目の前の課題(仕事や資産形成)に集中することが許されます。
しかし、この「不安」という強力な口実が失われた瞬間、私たちは別の問題と直面することになります。それは、経済的な問題よりもさらに根源的な、「自分とは何者か」「この人生に意味はあるのか」といった実存的な問いです。
ここで、「仕事への没頭(ラットレース)」が果たしていた、もう一つの役割が明らかになります。それは、目標に向かって登り続ける「山登り」のように、常に「すべきこと(Doing)」で自分を満たすことによって、自分自身の内面にある「空っぽ」かもしれないという感覚と向き合うことを「先送り」にする、という役割です。
経済的な安定は、皮肉にも、その「先送り」を続けるための最強の口実を奪い去ります。その結果、私たちは武装解除された状態で、自らの実存的な「空虚感」と対峙せざるを得なくなるのです。
なぜ私たちは、再び「制約」を求めるのか
この「空っぽ」という感覚の正体は、何かが欠けているという「欠陥」ではなく、むしろ「何者かであること(Doing)」を求められる以前の、「すのままの自分(Being)」が、そのまま受け入れられるという「実在感」の欠如であると考えられます。
私たちは、達成や役割によって自己を定義することに慣れすぎています。そのため、「ただ、そこに在る(Being)」という状態は、それ自体が強い不安を伴うものとなり得ます。
この「Being」の不安に耐えられないとき、人は防衛機制として、再び自らを「Doing」の世界に引き戻そうとします。その現れが、あえて高額なローンを組む、あるいは「他者を食べさせるため」といった新たな責任を引き受けるなど、自らに「制約」を課す行動です。
この「制約」は、「心地よい枯渇感」や「達成への興奮」を再び呼び起こし、「空っぽ」の感覚を覆い隠すための、最も手軽で強力な手段となります。しかし、それは「Being」をめぐる本質的な課題から、再び目をそらす行為に他なりません。
「人生のポートフォリオ」を再定義する
「Doing(達成)」への回帰は、根本的な「Being(実在感)」の問題を再び先送りするだけであり、本質的な解決にはつながりません。経済的な安定を達成した「次」のフェーズで求められるのは、この構造を認識した上で、「人生のポートフォリオ」全体を再定義(リバランス)することです。
この新しいフェーズにおいて、「仕事」や「資産形成(Doing)」の役割は、それ自体が目的となることではありません。それらは、人生のポートフォリオにおける最も重要な資産、すなわち「すのままの自分(Being)」が安心して存在できる領域(例えば、家族との対話、友人との対話、内面的な充足、健康)を、未来の不安から守り、育むための基盤(インフラ)として位置付けられるべきです。
経済的安定の「次」の課題とは、この「Being」の領域にいかに意識的に取り組み、その実在感を育んでいくか、という段階であると言えます。
まとめ
経済的な安定は、人生の一つの大きな課題の終わりであると同時に、より本質的な「実存」の課題の始まりでもあります。私たちは「達成(Doing)」によって自己を定義するフェーズから、「実在(Being)」の感覚をいかに育むかというフェーズへと移行する必要性に直面します。
あなたが「すべきこと」に没頭することで、先送りにしている「あるがまま」の課題は何か。一度、ご自身のポートフォリオを見つめ直してみてはいかがでしょうか。




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