電子ドラムは生ドラムの代わりにならない。だから別の楽器として極める

自宅に電子ドラムを置いて、それなりの年月が経った方に向けて書いています。

住環境や予算の都合で電子を選び、それでもどこかで、これは本物の代わりでしかないという引っかかりを抱えている。調べれば調べるほど、その引っかかりは裏づけられていきます。リバウンドが違う、叩き方の微妙な差が音に出ない、下手が誤魔化せてしまう。だから生ドラムも叩かないと上手くならない、と。

その指摘は、どれも正しいと思います。電子ドラムは生ドラムの代わりになりません。

ただ、この記事が問いたいのはその先です。なぜドラムだけが、40年近くも代わりになるかという物差しで測られ続けているのか。ギターもピアノも、とうにそのエレキとアコースティックで分離しているのに。

目次

「代わりになるか」は、ギターとピアノがすでに降りた問い

エレキギターは、アコースティックギターの代用として出発しました。バンドの中で音量が足りないという実務的な問題を解くための道具です。

けれども、いま誰もエレキギターをアコギの代わりだとは呼びません。歪みもフィードバックも、アコギには存在しない挙動です。代用として設計されたものが、代用先には無い性質を見つけて、別の楽器として自立しました。

ピアノとキーボードも似た経路をたどりました。録音の現場ではキーボードが標準になり、グランドピアノは象徴的な場面に残った。どちらが優れているかという問いは、いつのまにか意味を失っています。

ドラムだけが、まだ代用の位置に立たされている

電子ドラムはどうか。検索すれば、比較記事の大半が「生ドラムの練習になるか」を軸に書かれています。書き手の多くはドラム教室の講師で、生ドラムを叩けるようになることが暗黙の目的地に置かれている。

これは書き手の偏りではなく、市場の実感を正確に写しているのだと思います。電子ドラムは、いまも代用として買われ、代用として評価されている。

40年近い歴史を持ちながら、ギターとピアノが降りた物差しの上に、ドラムだけが残されています。

電子ドラムは一度、自立に成功している。ただし別の場所で

ここに、この問いを解く鍵があります。

ローランドは1980年にTR-808を発売しました。生ドラムに似ていないという理由で市場に受け入れられず、約12,000台を作ったところで1983年に生産を終えています。後継のTR-909は1983年発売、1年で生産終了、約10,000台。こちらも生ドラムらしさが足りないと評され、商業的には失敗でした。

代用として失格の烙印を押された機械です。

その二台が中古市場に安く流れ、ヒップホップとハウス、テクノを丸ごと作りました。似ていないことが欠陥として否定され、その欠陥がそのまま固有の音になった。エレキギターの歪みと、構造は同じです。

自立した音は、叩く身体を置いていった

問題は、その自立が起きた場所です。

808と909は打ち込みの機械でした。パッドを叩く電子ドラムの系譜には合流せず、身体性を捨てた側で固有の音を手に入れた。

そしてV-Drumsが登場したのは1997年、TD-10とメッシュヘッドによってです。808の失敗から17年後、電子ドラム側の自立が別の場所で完了した後に、生ドラムの再現を目指す製品として出発しました。

分岐は、こう整理できます。ドラムの電子化は一本道ではなく、身体性を捨てて固有の音を得た側と、身体性を残して生の再現に向かった側の二つに割れた。ギターにもピアノにも、この分岐は起きていません。

ここから先は仮説です。この分岐こそが、パッドを叩く電子ドラムを代用の位置に固定した原因ではないか。固有の音という称号は、すでに打ち込み側が持ち去っていた。残された側に用意されていた役割は、生ドラムに似ることだけだった。

生の再現を目指す設計は、生を超えられない構造を持つ

V-Drumsは生ドラムのUIをそのまま借りています。パーツの数も配置も、生ドラムセットの写しです。

同じ形をした道具は、写した元の表現の部分集合にしかなれません。どれだけ精度を上げても、目指す先が生ドラムである限り、到達点は生ドラムです。それが上位の比較記事が正しく指摘している現実の正体だと考えています。

解像度の競争は、限界を自分で認めている

ローランドは打面の解像度を年々上げてきました。デジタル接続のパッドは、打点とベロシティを従来より細かく検出します。

ただ、この方向で埋まらない差があります。シンバルの非決定性です。

膜が張ってある太鼓は、境界条件が固定されているので、同じ場所を同じ強さで叩けばほぼ同じ波形が出ます。シンバルは違う。自由端だらけの金属板なので、どの振動モードが立つかが毎回変わる。特にチャイナは、二発目を叩くとき、一発目の振動が残っている板を叩くことになります。前の一撃の状態が、次の音の初期条件になっている。

ローランドはこれに対して、複数のサンプルをランダムに切り替える手法で応じています。連打しても同じ音が並ばないようにする仕組みです。ただこれは、叩いたから変わったのではなく、叩くたびに変わっているだけです。前の一撃の状態を持っていないので、原理的に非決定性そのものではありません。

解像度を上げる競争は、この壁の手前で行われています。数字を掲げること自体が、その物差しの限界を認めている合図に見えます。

生では組めない編成が、すでに成立している

ここからが、この記事の中心です。

私は現在、23パーツの編成を組んでいます。生ドラムで23パーツを組む人は、まずいません。物理的に置ける場所がなく、置けたとしてもスティックが届かない。

そして、この編成を電子で組もうとしたとき、機材の側に明確な天井がありました。

デジタルパッドは3枚が上限だった

現行のフラッグシップであるV71は、デジタルトリガー入力を3系統持っています。アナログ入力は14、USBオーディオは32チャンネル。下位機のV31はデジタル入力1系統、USB30チャンネル、エフェクト仕様はV71と同一です。

私の23パーツをこの二台で組むと、デジタルは3枚が限界になります。スネア、ハイハット、ライド。この3つで枠が尽きる。

なぜこの制約が興味深いかというと、3枚という数が、生ドラムの中核3点と正確に一致しているからです。設計が生ドラムの重心をそのまま写している。クラッシュのデジタル化が来ないのは、生ドラムにおけるクラッシュが消耗品の位置にあり、単価を上げられないからでしょう。

ライドをクラッシュとして使えなかったことが、境界を教えてくれた

デジタルライドをクラッシュとして使えないかを試したことがあります。せっかくの高精度なパッドなのだから、と考えました。

結果は明確な失敗でした。18インチの厚い板は、クラッシュに必要な返しの速さを持っていません。ボウの打点を細かく検出する設計は、ライドとしてのアタック定義に最適化されていて、派手に散るショルダー打ちには追従しない。

デジタルの解像度が効くのはライドの打点検出とベルの分離であり、クラッシュに求められるのは叩いた瞬間の派手さです。要求が逆を向いていました。

この失敗が教えてくれたのは、電子ドラムのパーツが生ドラムのパーツを写しているがゆえに、生ドラムと同じ非対称性をそのまま引き継いでいるということです。生のライドをクラッシュに使えないのと同じ理由で、デジタルライドもクラッシュにはなれない。

それでも、23パーツは生では組めない

ここに逆説があります。

一つ一つのパーツは生ドラムの写しなのに、23という数の編成は、生ドラムでは成立しない。パッドは好きな位置に好きな数だけ置けるからです。生ドラムのレイアウトは長い時間をかけて人体に最適化されてきましたが、その最適化は太鼓とシンバルの物理的な大きさに縛られています。パッドにはその縛りがない。

つまり、生の代用として設計された道具が、代用の枠から既にはみ出している。23パーツを組んだ時点で、私が演奏しているのは生ドラムではありません。

電子ドラムが別の楽器になったと言えるのは、いつか

ここからは仮説です。

エレキギターがアコギから自立した瞬間は、性能が追いついた時ではありませんでした。歪みとフィードバックがヒット曲で鳴り、音楽そのものを変えた時です。自立は、性能ではなく作品が決めています。

電子ドラムにその瞬間はまだ来ていません。ただ、条件は揃い始めていると考えています。

打ち込みが先に定義した音を、身体が奪い返す

近年の打ち込み前提のフレーズには、生ドラムのレイアウトでは物理的に叩けないものが増えています。人が演奏しようとすると、まず配置から作り直すことになる。

これは電子ドラムにとって有利な変化です。生ドラムでスプラッシュを4枚、手の届く距離に並べるのは無理ですが、パッドなら成立します。打ち込みが先に定義した音を、身体を通して奪い返す。この経路なら、叩くからこそ生まれる音が定義できるかもしれません。

身体が疲れることは、打ち込みには無い変数

フィンガードラムでは出せないものが一つあります。疲労です。

8分を10分間叩き続けた後半に出るヨレやモタりは、体力の限界から生まれます。全身を使う打撃には必ず含まれ、指の運動には含まれない。身体が疲れるという事実が、そのまま演奏の情報になっている。

パッドを叩く限り、この変数は残ります。ここは打ち込みにも生ドラムにも譲らずに済む領域です。

それでも、逆転はたぶん起きない

未来の見立てを、正直に書きます。

電子ドラムが生ドラムを置き換えることは、おそらくありません。ピアノとキーボードの関係と同じで、二重構造のまま並存すると考えています。

ただし重心は動きます。録音のデフォルトは電子に移り、生ドラムはライブと象徴的な場面に残る。90年代にピアノは要らなくなると言われて30年が経ち、ピアノは残りましたが、グランドピアノを買う人はほとんどいなくなりました。それと同じ形です。

これは負けではありません。エレキギターが主戦場になった後も、アコギは消えていない。別の楽器が二つ並んでいるだけです。

判断基準は、生ドラムで組める編成に留まっているかどうか

読者の方が自分の電子ドラムをどう位置づけるか、一つの基準を提示します。

いま組んでいるセットが、生ドラムでもそのまま組める編成なら、その道具は代用として使われています。物差しは生ドラムのままで、勝負すれば負けます。上位の比較記事が指摘するとおりです。

生ドラムでは置けない位置に、生ドラムでは持てない数のパーツが並び始めたら、それは別の楽器の演奏です。そこから先、リバウンドの差も、叩き方の再現度も、評価軸として意味を持たなくなります。比べる相手がいないからです。

パーツを一枚足してみる、位置を人体側の都合だけで決めてみる。そういう試し方を検討してみてはいかがでしょうか。

この問いは、楽器の外にも同じ形で現れる

電子ドラムの話をしてきましたが、構造は楽器に限りません。

新しい道具が古い道具の代用として登場し、代用としての完成度で測られている間は、元の道具を超えられない。超えるのは、代用先に存在しない性質を見つけた時だけです。そして、その性質はたいてい、代用としての欠陥だと呼ばれていたものの中にあります。808が生ドラムに似ていないと否定されたことが、そのままヒップホップの音になったように。

もし手元の道具が、何かの代わりとして評価されて負け続けているなら、疑うべきは道具の性能ではなく、物差しの方かもしれません。

この見極めは、時間の使い方に直結します。代用としての完成度を上げる努力は、上限が見えている競争に資源を注ぐことです。一方、その道具にしかない性質を探す努力は、比較相手のいない領域に資源を注ぐことになる。同じ時間と同じ費用でも、前者は上限に向かって減価し、後者は誰も価格をつけていない場所に積み上がります。何を伸ばすかの選択は、そのまま人生の配分の選択です。

よくある疑問

Q:電子ドラムで練習すると、生ドラムが下手になりますか。

A:生ドラムを叩く技術の習得という目的に限れば、電子ドラムだけでは足りないという指摘は妥当です。リバウンドの感覚も、叩き方の差が音に出る手応えも、生とは異なります。ただしこれは、電子ドラムが劣っているという話ではなく、目的が生ドラムの習得に置かれている場合の話です。電子ドラムを別の楽器として演奏するなら、この基準自体が当てはまりません。

Q:電子ドラムは、いつか生ドラムの代わりになりますか。

A:代わりになるという形では、おそらくなりません。エレキギターがアコースティックギターの代わりにならなかったのと同じ意味においてです。ただし録音の現場では、電子が標準になっていく可能性が高いと考えています。生ドラムは、ライブと象徴的な場面に残る形です。

Q:住環境の都合で電子ドラムを選びました。妥協でしょうか。

A:妥協かどうかは、何を目指すかによって変わります。生ドラムを叩けるようになることが目的なら、制約の中での次善策です。ただ、電子ドラムには生ドラムでは組めない編成という固有の領域があり、そちらを目指すなら、次善策ではなく別の楽器を先に始めたことになります。どちらを選ぶかは、演奏する方自身が決めてよい問題です。

まとめ

電子ドラムは生ドラムの代わりになりません。この点で、上位の比較記事が指摘していることは正確です。

ただ、その物差しが40年近く続いているのは、ドラムの電子化が一度分岐したからだと考えています。固有の音を見つける役割は打ち込み側が持ち去り、身体を残した側には生の再現という役割だけが残された。

その配置は、いま揺らぎ始めています。生ドラムでは組めない編成が既に成立し、打ち込みが定義した音を身体で奪い返す経路も見えている。エレキギターが歪みを見つけた瞬間に相当するものは、電子ドラムにまだ訪れていませんが、条件は揃いつつあります。

代用として測られている限り、その道具は負け続けます。物差しを疑うことから始めてみてはいかがでしょうか。

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