休めない、と感じている人は少なくないはずです。何もしない時間を作ろうとしても、気づけば手が動いている。
けれど休めないのは、方法の問題ではないのかもしれません。この記事は、休息を活動の停止ではなく目的の停止として捉え直し、動いていても休めるという道筋を示します。動けてしまうことに罪悪感を覚えている人に向けた、もう一つの休息の入口です。
私は休み方ではなく、休息の定義を間違えていた
私が長く休めなかったのは、休み方を知らなかったからではなく、休息の意味を取り違えていたからでした。
何もしない時間を作ろうとすると、気づけば楽器を弾いているか、文章を書いています。ぼんやりするという状態が、長く続きません。だから人からはよく動く人に見えるでしょうし、実際そうなのだと思います。
世間で休息と言うとき、多くの人が思い浮かべるのは何もしないことです。活動を止めること、それが休息だと考えられています。この定義に従う限り、動いてしまう私は永遠に休めない人間になってしまいます。
同じ行為が、目的の有無で休息にも労働にも変わる
同じ行為でも、目的があるかどうかで、休息にも労働にも変わります。私の場合、楽器を弾くことも文章を書くことも苦役ではなく、それをしているとき心はむしろ静かで満たされています。動いているのに回復しているというこの矛盾が、一つの仮説へ導いてくれました。
休息とは活動の停止ではなく、目的の停止なのではないか。この見方に立つと、矛盾は矛盾でなくなります。
文章を書くという同じ行為でも、読まれるために書けば労働になり、ただ書きたいから書けば回復になります。反応を成果として回収しようとするかどうか、つまり目的がぶら下がっているかどうかが、消耗と回復を分けています。
「何もしない」が休息に見えるのは、活動に目的がぶら下がっているから
世間が活動の停止を休息だと考えるのは、ほとんどの活動に目的がぶら下がっているからだと考えられます。
仕事はもちろん、家事も付き合いも、多くの行為が何かのために行われています。だから目的を降ろす最も簡単な方法が、活動そのものをやめることになります。動かなければ目的も消えるという理屈で、何もしないことが休息だという近似が成り立ちます。
けれどこれは、あくまで近似にすぎません。本質は活動の停止ではなく、目的の停止の側にあります。定義をこちらに置き換えた瞬間、動いていても休めるという道が、動かずにいられない人にも開きます。
目的を抜くとは、出来栄えを採点する自分を一度降ろすことである
ただし目的を抜くことは、活動を止めるよりずっと難しいものです。手を膝に置けば活動は止まりますが、目的は頭の中にあるため、意志では制御しにくいからです。
とりわけ難しいのは、評価する自分を降ろすことです。楽器を弾けば上手い下手を採点する自分が顔を出し、文章を書けば価値があるかを判定する自分が現れます。この採点者がいる限り、行為は成果へ向かい、休息は労働へ変わります。
純粋に休むとは、無になることでも動かないことでもなく、この採点者を一時的に降ろすことなのだと思います。やってもよく、ただその出来栄えを評価せず、結果を回収しようとはしないのです。それができたとき、はじめて行為は回復に変わります。
目的のある活動とない活動は、同じ口座で運用しない
行き着いたのは、目的のある活動と目的のない活動を一日の中に両方持ち、それを混ぜないという構えでした。
目的のある活動は、思い切り目的を追ってかまいませんし、そこに罪悪感はいりません。仕事も、誰かに届けたい創作も、結果を取りに行ってよいのです。それとは別に、出力を評価せず結果も求めない、ただその時間そのものを味わう活動を、意識的に持ちます。
大切なのは、この二つを同じ口座で運用しないことです。混ぜれば、目的のある側が目的のない側を静かに編成させていくからです。別々の口座として分けて持てば、休息は人生というポートフォリオの中で、独立した一つの口座になります。
休めないのは、活動からではなく目的から降りていないからかもしれない
休めないと感じている人は、活動を止められない自分を責めなくてよいのかもしれません。止めるべきは活動ではなく、その活動にぶら下がった目的の方だからです。
何かをしていてもかまいません。弾いていても書いていても、そこから上手い下手の採点と結果の判断を一度降ろしてみるだけです。うまく降ろせているかどうかは、身体のこわばりが解けるかどうかが教えてくれます。
休めない自分を変えようとする前に、休息の定義を一つ入れ替えてみる。そういう方法を、検討してみてはいかがでしょうか。








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