私は付き合いでしか酒を飲みません。煙草は一切吸わず、ギャンブルもせず、いわゆる女遊びもしません。
世間ではこうした営みを、息抜きや発散と呼びますが、これらをすべて手放すと、その分の時間と意識に、ぽっかりと空白が生まれます。この空白の価値は大きいと私は感じているのです。
発散とは、目的を持った刺激
酒もギャンブルも、突き詰めれば、目的を持った刺激です。酔いという心地よさ、勝ち負けというスリル。私たちはそこに、はっきりとした手応えを期待して手を伸ばします。
だから発散を手放すと、その手応えがあった場所に、目的の抜けた空白が残ります。何かを得るために使っていた意識が、何にも向けられないまま空きます。
余白は、最初はただの物足りなさに見えます。埋めていたものがなくなったのですから、当然です。けれど、この物足りなさの正体を、もう少し丁寧に見ていきます。
空いた余白を、私たちはつい強い刺激で埋め戻してしまう
物足りなさを感じると、人はその余白を、より強い刺激で埋め戻そうとします。けれど、ここに見落としやすい仕組みがあります。強い刺激で埋めるほど、同じ強さでは満たされなくなっていくのです。
スタンフォード大学の精神科医アンナ・レンブケは、著書『ドーパミン・ネーション』で、脳が快楽と痛みを同じ場所で天秤のように釣り合わせていると説明しています。強い快楽を得るたびに、脳はそれを打ち消そうと反対側の痛みへ振り戻し、基準を一段下へずらします。同じ刺激を繰り返すほど、快楽の振れは小さく短くなり、後から来る痛みは強く長くなっていきます。
つまり、余白を強い刺激で埋め続けると、満たされるための基準そのものが上がっていきます。より強いものを入れなければ、平らな状態にすら戻れない。発散で空白を塞ぐ習慣は、この上がり続ける基準を、自分で育ててしまう行為でもあります。
余白は埋めずに空けておくほうに価値がある
ここからが、この記事のいちばん伝えたいところです。空いた余白は、埋めずに空けておくほうに、大きな価値があります。そしてそれは、我慢して刺激に耐える、という意味ではありません。
空けておくことが我慢に思えるのは、余白を欠落だと見ているあいだだけです。実際には、余白を保つことそのものが、発散では決して得られない二つのものを連れてきます。一つは、考えていないときに訪れるもの。もう一つは、感じる力が戻ってくることです。
空けておいた余白にこそ、アイデアは降りてきます
私が酒・ギャンブルなどを手放している、いちばん大きな理由がこれです。余白を空けておくと、机に向かって考えているときではなく、何にも目的を向けていないときに、アイデアが降りてきます。
そして、その後の創作が、明らかに充実したものになります。降りてきた一つの着想から書いたり奏でたりする時間は、発散で得るどんな心地よさよりも、深く満ちています。私が酒やギャンブルなどが要らないのは、我慢しているからではなく、この創作の手応えのほうが上等だと、身体で知っているからです。
何かを断つために余白を守っているのではなく、余白が運んでくるもののほうが豊かだから、発散がいらなくなる。つまり、酒やギャンブルなど以上に建設的なものが、空白の側にあるということです。
刺激を手放すほど、何でもないことに心が動くようになる
もう一つは、感じる力が戻ってくることです。先ほどの天秤は、刺激を断つ時間が続くと、やがて元の水平へ戻っていきます。
水平に戻ると、何が変わるのか。強い刺激でしか動かなかった心が、何でもないことで動くようになります。朝の光、淹れたての一杯、ふと耳に入った和音。発散で基準が上がっていた頃には素通りしていたものが、また心に触れるようになるのです。
これは、安く済ませるという話では、決してありません。むしろ逆で、強い刺激を入れないことで、世界のきめ細かさ、人生のいちばん細かい部分が、また見えるようになる。余白は、その感受性が育つ場所でもあります。
空けておく余白は、休息であり、創造が生まれる場所でもある
ここまで来ると、余白の話は、休息の話と一つになります。前に、休息とは目的の停止であると書きました。発散をやめて空いた余白とは、まさに目的の止まった時間のことです。
だから、余白を空けておくことは、そのまま休むことになります。そして同時に、その止まった時間が、アイデアの降りてくる土壌になり、感じる力の戻ってくる場所になります。休息と創造と感受性は、どれも、何かを足すのではなく、空けておくことから生まれていました。
発散を手放した先に残るのは、埋めるべき欠落ではなく、空けておくに値する余白です。もし今、空いた時間を慌てて埋めようとしている感覚があるなら、その手をいったん止めて、しばらく空けたままにしてみる。それだけで、これまで素通りしていた何かが、戻ってくるかもしれません。

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