もっと自由に、もっと豊かに働きたい。働き方を見直し、時間の使い方を整えても、満たされた感覚にはなかなかたどり着けない。そんな手応えのなさを抱えたことはないでしょうか。
私自身、三十代半ばで一日四時間労働で年収は一千万円を超えました。完全在宅でフリーな時間が有り余る状態でした。経済的にもリーンFIREであれば可能な状態となりました。しかし、ここから時間の最適化をしようとすると満足感・幸福感の上限がすぐにきてしまうことに気づきました。
この記事が掘り下げるのは、その満たされなさがどこから来るのか、という一点です。先に結論を置けば、それは一日の構造ではなく、同じ一日をどう見るかというまなざしの側にありました。なぜそう言えるのかを、私自身の一日をたどりながら解体していきます。
働いていない時間も、頭は動いている
机に向かう時間が短くても密度の高い仕事ができるのは、働いていない時間にも思考が進んでいるからです。
私のビジネスのアウトプットは、一日四時間ほどです。完全にリモートで稼働時間も自分で決められるため、実際に手を動かして何かを生み出す時間は、それで足りています。
残りの時間も、頭は静かに動いています。散歩していても、ぼんやりしていても、背景で問いが転がり、構造が組み上がり、引っかかっていたものがほどけていく。机に向かうころには、もう半分は出来上がっているのです。
鍵盤の外の時間が、演奏の質を決めている
働いていない時間に思考が進むという感覚には、裏づけになりうる研究があります。
神経科学者アルバロ・パスクアル=レオーネらが1995年に学術誌 Journal of Neurophysiology で報告した実験です。ピアノの五指練習を、実際に弾いて覚えた人たちと、手を止めて頭の中で弾くことだけを繰り返した人たちを比べたところ、指を動かす脳の運動野は、どちらでもよく似た形で広がっていました。
鍵盤に触れていない時間の頭の働きが、鍵盤の上の質を準備していた、と読める結果です。ただし、この研究が示しているのは、意図して頭の中で練習した場合の効果までです。手を動かす時間が氷山の一角だとしても、水面下で何が起きているかは、ここから先は慎重に見る必要があります。
無目的の休息が、結果として思考を進める
ここから先は、研究が保証する範囲を超えた、私自身の体験からの推測です。意図して頭を使わなくても、無目的に過ごした時間が、結果として思考を前に進めてくれることがあります。
かつて私は、休む時間を仕事の前処理にしてはいけないと考えていました。見返りを期待した瞬間、休息は労働に変わり、休めなくなるからです。ところが実際に起きていたのは、逆方向のことでした。前処理にしようと意図しないからこそ、無目的の時間は勝手に背景で効いていたのです。
違いは順番にあります。「良いアイデアを出すために休む」のではなく、「休んだら、良いアイデアが出ていた」のです。この順番が逆になると、休息はまた労働に戻り、副産物も出なくなります。
一日の構造は、もう完成している
こうして自分の一日を眺めると、その構造はもう完成しているのではないか、と思えてきます。
アウトプットが四時間、そのまわりに緩やかに考え続ける時間があり、創作は収入と切り離した無目的の領域として置いてあります。働き方が変わっても、たとえば独立したとしても、この構造はおそらく変わりません。
変わらないのは、一日が外から与えられた役割ではなく、自分の内側のリズムで組まれているからです。仕事が生活を決めているのではなく、自分のリズムの中に仕事が収まっている。だとすれば、「もっと幸せに過ごすには」という問いの答えは、構造をいじることの中には残っていません。
残された変数は、心の在りようだけです
構造に手を入れる余地がないとすれば、残っている変数は、その同じ一日をどんな心で過ごすか、それだけです。
同じ四時間、同じ無目的の時間、同じ一日を、「足りない、もっとやらねば」という心で過ごすのか、「これで充ちている」という心で過ごすのか。同じ活動でも、欠乏から動くか、充足から動くかで、体験の質は静かに反転します。
欠乏から動くと、どれだけ成果を出しても次へ次へと駆り立てられ、満たされた感覚はなかなか訪れません。充足から動くと、同じ活動が、成し遂げるためではなく、ただ味わうためにそこにいられるものへ変わります。
心の在りようは、意志ではなく観察で変わります
では心の在りようをどう変えるかというと、これは頭で決めて切り替えられるものではないようです。
「充足から動こう」と意志で決めても、欠乏の感覚は勝手に立ち上がってきます。必要なのは、上書きではなく観察なのだと思います。静かに座って、「足りない」という感覚がどこからどう湧いてくるのかを、消そうとも従おうともせず、ただ眺めてみる、という時間を持ってみてはいかがでしょうか。
観察できるものには、振り回されにくくなります。「足りない」を自分そのものだと思い込んでいるあいだは、それに突き動かされます。けれど「また欠乏が湧いてきた」と眺められるようになると、少し距離が生まれ、突き動かされる代わりに、見送れるようになります。
足りなかったのは、構造ではなく、まなざしでした
長いあいだ私は、「どう過ごせば、もっと満たされるか」を構造の問題だと思っていました。何時間働くか、何をするか、どう配分するか。それを最適化すれば良くなるはずだと。
けれど構造はすでに完成していて、最適化の余地は残っていませんでした。残っていたのは、構造ではなく、同じ一日を欠乏で見るか充足で見るか、というまなざしの側でした。それは何かを足すことではなく、すでにあるものをどう見るかという問題だったのです。
もし今、働き方や時間の使い方を変えたいと感じているなら、その願いが充足から来ているのか、欠乏から来ているのかを、一度静かに眺めてみてはいかがでしょうか。「何時間働けば幸せか」と問うているあいだは、答えにたどり着きにくいのかもしれません。問いそのものが欠乏の側から発されている以上、最後に残るのは、同じ一日を満ちたものとして見られるかどうか、という静かな問いなのだと思います。






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