剥がす——ポスト資本主義の正体は、プレ資本主義だった

給与制度・評価制度の設計の責任者に携わっているとき、ふと手が止まりました。制度の精度をどれだけ上げても、それは人の働き方に新しい層を一枚かぶせているだけではないか、と感じたのです。足せば良くなる、精度を上げれば改善する。経営学ではそう信じて、制度も施策も管理も積み上げてきました。

この記事が立てたいのは、その逆の問いです。良くするために必要なのは、足すことではなく、剥がすことではないか。日本式社会主義から個へ、資本主義からポスト資本主義へ。時代は前に進めば次の正解がある、というその地図を、一度だけ疑ってみます。

目次

「これからは個の時代だ」は、次の輸入物に乗り換えているだけ

この問いを、よくある時代論から始めます。「これからは個の時代だ」という結論は、聞こえはいいけれど、よく見ると次の輸入物に乗り換えているだけです。

昭和の日本は「世界で最も成功した社会主義国」だった、という見方があります。終身雇用も護送船団も総中流も、成長というパイの拡大を前提にした巨大な共同体でした。その共同体はもう存在しないから、これからはどこにも全面帰属せず個として立つ時代だ。たいていの論は、ここに着地します。

筋は通っています。ですが、社会主義という上書きを剥がしたつもりで、その下から掴んでいるのは、西欧の個人主義です。契約で結ばれ、いつでも切れる個人。昭和を否定して、また別の舶来品を手にしている。これでは、上書きに更に上書きをしている状態だといえます。

日本的経営は伝統ではなく、社会主義による上書き

2026年で、昭和の改元から満百年を迎えます。国はこれを、昭和を顧み、先人に学び、その記憶を未来へ継承する機会として打ち出しています。ですが私は、昭和の経営に関しては、継承する前に剥がすべき層があると考えています。

終身雇用と年功序列と企業内組合、いわゆる日本的経営が機能したのは、高度成長以降の四十年弱にすぎません。全員を抱え、差をならし、誰も落伍させない。この結果の平等は社会主義の理想であって、実は日本古来のものではありません。戦後のキャッチアップのために作られた近代の装置に、「家族経営」という情緒の皮をかぶせたものです。だから成長が止まった瞬間に壊れました。

その下の地層も剥がせます。明治維新で入ってきた近代国家も資本主義も西欧的な個人も、百五十年あまりの上書きです。さらにその下、資本主義そのものも、産業革命から数えて二百五十年ほどしかありません。数千年の人類の有史の蓄積に対して、産業革命後の二百五十年は、ずいぶん特殊な一瞬だったのではないでしょうか。

制度の精度を上げることは、文化への上書きだった

この「上書き」は、歴史の話である前に、制度を設計する現場の実感です。給与制度の設計に携わる中で、私はあるとき、精度を上げる作業そのものが、人の働き方に新しい層をかぶせているにすぎないと感じました。

人類史の本を読むうちに、その感覚は像を結びました。本質的にも地理的にも、制度で人間を完全にコントロールするのには限界があるのではないか。だとすれば、余計な制度はかえってノイズになり、副作用を生み、予後を悪くします。これは検証できる事実ではなく、通読と実務から私が至った見立てです。

同じ地点に、別の道から着いた先行研究があります。政治学者のジェームズ・C・スコットは、上から社会を標準化しようとする統治ほど、現場の実践知を壊して裏目に出ると論じました。個別の事例には異論もありますが、その枠組みは、制度の精度をめぐる私の実感とよく重なります。

資本主義が行き詰まったのは、金で幸福が買えるという神話が剥がれたから

資本主義は行き詰まっている、とよく言われます。ですが、その本当の行き詰まりは、システムの側ではなく、私たちの実感の側にあると私は見ています。

成長が鈍るなら価値を創ればよく、新しい価値には市場が応えます。格差にしても、価値を創造すれば対価は返ってくるという意味では、むしろ開かれています。気候の問題を持ち出して資本主義の限界を語る論もありますが、世界はもっと複雑で、そう簡単に一本の線では繋がりません。

行き詰まっているのは仕組みではなく、ひとつの幸福観です。金を持てば幸せになれる。この神話が剥がれたことに、多くの人が気づきはじめています。私自身、ある時期から、ここまで稼ぐために頑張る必要はなかった、と感じるようになりました。年収が一千万円を超えたあたりからでしょうか。世の中のマーケティングは不要なものをあたかも自分が欲しいと思い込ませるように機能しています。その仕組みに気づくと、金で幸福を買うという前提そのものが、色褪せて見えてきます。事実、これまで二千万円分の楽器を手に入れましたが、不要な商品はメルカリなどのフリマサイトで売却し、新たに購入したい機材もなくなりました。

もちろん、マーケティングに踊らされる人からしてみれば、数千万円では全く足りないと思います。本当に心から欲しいものに限れば、もう十分なのです。

ポスト資本主義の正体は、新しい段階ではなくプレ資本主義

では、その次に来るのは何でしょうか。私はポスト資本主義の正体を、新しい段階ではなく、プレ資本主義だと考えています。ポストではなく、プレです。つまり、資本主義の前の段階。

この言葉はふつう、資本主義の次に来る新しい何か、脱成長や定常型社会といった次の段階を指して使われます。やはり前に進む発想です。ですが、市場が社会の中に埋め込まれ、金以外のもので人と人が繋がっていた状態こそ、人類の常態でした。

だとすれば、二百五十年の実験を終えて私たちが帰っていく先は、どこか新しい場所ではなく、もともと立っていた場所です。資本主義が終わるとしても、それは生産の仕組みとしてではなく、金で幸福が買えるという神話として終わるのではないでしょうか。人類の営みはこれまで通り続きます。

日本本来の共同体は、結果の平等ではなく役割への参加で人を繋いでいた

日本には、その「もともと」が、かなり純度の高い形で残っています。島国という閉じた条件の中で千年単位で醸成されたそれは、結果の平等ではなく、役割への参加で人を繋ぐものでした。

連歌や茶の湯の一座を思い浮かべてみます。固定された会員制ではなく、その場に集った者で一座を成し、一期一会で、終われば解ける。家もそうです。血縁共同体に見えて、養子でも番頭でも、家の役割を果たせば家の一員として遇されました。役割は当主と番頭で徹底して非対称ですが、機能を果たす限り、落伍とは役割の喪失であって、人格の否定ではありませんでした。

講があり、結がありました。特定の目的のために結ばれ、その目的のために助け合う、部分的な相互扶助です。人生をまるごと預けはしません。部分的で、機能的で、その都度立ち上がり、解けることを前提とする。これが、昭和の「全員横並びで丸ごと抱える家族」とは決定的に違う、日本本来の共同体の手触りです。社会主義が結果の平等を理想としたのに対し、こちらは役割への参加を原理としていました。似ているようで、正反対です。

足すのをやめて剥がすと、いちばん新しいものが下から現れる

だから、やるべきことは足すことではなく、剥がすことだと私は考えています。剥がしていくと、下からいつも同じものが出てきます。役割への参加、関係の中の幸福、機能的で部分的な共同体です。

人を雇うこと一つ取っても、見え方が変わります。全面的に抱え込むのでも、契約でドライに切るのでもなく、役割を果たす限り一座の一員であり、金以外のもので繋がっている。そういう器が、もうひとつあったはずです。新しい発明ではなく、上書きの下から掘り出すだけです。

面白いのは、金以外で繋がっているコミュニティは、すでに資本主義の外に立っている、ということです。単価がすべてなら、人はより高く払う者のところへ流れます。それでも動かない場所があるとしたら、そこにはもう、金で人を繋ぐという作法が効いていません。気づかぬうちに、プレ資本主義を先取りしているとも言えます。

引き算は、様式に着地するための動作ではありません

ここで一つ、引き算の行き先に注意したいと思います。例えば、無印良品の引き算は、過剰な消費社会へのアンチテーゼとして始まりました。ですが、その引き算が向かった先は、洗練されたミニマリズムという、もうひとつの様式でもありました。

本当の引き算は、様式にたどり着くためのものではないはずです。上書きされた地層を一枚ずつ剥がして、その下に埋まっていた本来を掘り出すための動作です。何かを足せば良くなるという反射こそ、この数百年が私たちに刷り込んだ、最も強い癖かもしれません。

制度を足す、施策を足す、管理を足す。やっている感だけが積み上がり、本質からは遠ざかります。先ほどの言い方を借りれば、余計な精度はノイズになり、副作用を生み、予後を悪くします。足すのをやめて、剥がす。

おわりに

余計な精度が制度の予後を悪くするのと同じことが、たぶん人生にも起きています。不要なものを足し続けると、人生の予後もまた、静かに悪くなっていきます。

人類の本質、日本人の本質と切り口でいえば、時代は前に進まないのかもしれません。剥がして、戻るだけ。そして戻った先に、たぶん、いちばん新しいものがあります。それは、金以外で繋がる関係であり、役割を果たすことの手応えであり、必要なものだけで満ちた暮らしです。そして、手段としてのAIをはじめとしたテクノロジーが乗っかる。

ポートフォリオも、足し算だけで豊かになるとは限りません。次に何かを足したくなったとき、それは本来を掘り出す動作なのか、それとも上書きを一枚かぶせ直す動作なのか。一度、手を止めて問い直してみてはいかがでしょうか。

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この記事を書いた人

サットヴァ(https://x.com/lifepf00)

『人生とポートフォリオ』という思考法で、心の幸福と現実の豊かさのバランスを追求する探求者。コンサルタント(年収1,500万円超/1日4時間労働)の顔を持つ傍ら、音楽・執筆・AI開発といった創作活動に没頭。社会や他者と双方が心地よい距離感を保つ生き方を探求。

この発信が、あなたの「本当の人生」が始まるきっかけとなれば幸いです。

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