気候変動について考える際、海面の上昇や生態系の変化といった、視覚的に捉えやすい事象が想起される傾向にあります。動植物が絶滅の危機に瀕している事実は広く知られていますが、私たちの認識から看過されやすい変化があります。それは環境音の変容です。
本稿では、地球環境の変化によって永続的に失われる可能性のある音、特に氷河が発する音を「失われゆく音」という視点から考察します。そして、世界中のアーティストや研究者が実践する「フィールドレコーディング」という手法を用い、これらの音を未来へ継承しようとする創造的な活動を紹介します。これは、環境問題の現実を人類の記録として保存するための、新たなアプローチです。
サウンドスケープの概念と文化遺産としての価値
私たちが存在する環境は、視覚情報だけで構成されているわけではありません。ある特定の場所における、自然音、人工音、そして人間の活動から生じる音が混ざり合った総体的な音環境は「サウンドスケープ(音の風景)」と呼ばれます。この概念は、カナダの作曲家であり音響生態学者でもあるR. Murray Schaferによって提唱されました。
サウンドスケープは、その土地の地理的特徴や文化を反映し、そこに住む人々のアイデンティティ形成にも関わるとされています。例えば、寺院の鐘の音、市場の喧騒、小川のせせらぎといった音は、単なる物理現象ではなく、その地域の歴史や生活様式を反映する、非物質的な文化的資産と見なすことができます。
しかし、このサウンドスケープは、工業化や都市化、そして地球規模の環境変動によって急速に変容しつつあります。かつては当然のように存在した音が消失し、新たな騒音に代替されることで、私たちは無意識のうちに、文化的な記憶の一部を失っている可能性があるのです。
気候変動の指標としての氷河の音
サウンドスケープの中でも、特に気候変動の影響を顕著に示すのが「氷河の音」です。極地に存在する巨大な氷河は、地球の気候史を内包する貴重な情報源です。
氷河の内部には、数万年から数十万年前に降った雪と共に、当時の空気が気泡として閉じ込められています。氷が融解する際、これらの気泡が弾けることで微細な音が発生します。これは、過去の地球大気の構成要素が、音という形で現代に解放される現象と捉えることができます。
また、氷河はその自重によって常に緩やかに移動しており、その過程で低周波の軋む音を発します。そして、温暖化によって融解が加速すると、巨大な氷塊が海へ崩落する際の大きな音が生じます。これらの音は、地球の長大な時間軸で生じる自然なプロセスを示唆します。しかし現在、そのプロセスは気候変動によって加速され、氷河が縮小・消滅することで、その音もまた失われる可能性に直面しています。
フィールドレコーディングによる音響の記録と表現
この失われゆく音を記録し、未来へ伝えようとする活動が、世界中のアーティストや研究者の間で展開されています。その中心的な手法が「フィールドレコーディング」です。これは、管理されたスタジオ環境ではなく、自然や都市といった特定の「場」に赴き、その場で生じている音をそのまま録音する行為を指します。
音響生態学者(サウンド・エコロジスト)たちは、高感度のマイクロフォンを携えて極地へ向かい、氷河が発する多様な音を体系的に収集しています。例えば、ダグラス・クインによる南極の氷下でのアザラシの鳴き声や、氷床の軋む音の録音といった活動は、科学的なデータ収集と並行して、芸術表現の素材としても活用されています。
また、現代アーティストもこの問題に独自のアプローチで取り組んでいます。スコットランドのアーティスト、ケイティ・パターソンは「Vatnajökull (the sound of)」という作品で、アイスランドのヴァトナヨークトル氷河が溶ける音を水中マイクで集音し、電話回線を通じてギャラリーにリアルタイムで中継しました。鑑賞者は受話器を手に取り、遠隔地の氷河が融解する音をリアルタイムで聴取します。
これらの活動は、単に音を保存するアーカイブ化に留まりません。録音された音を素材に音楽作品や音響インスタレーションを制作し、人々の聴覚に直接提示することで、抽象的で巨大な気候変動という問題を、より知覚しやすい現象へと転換を促す一助となります。
音響体験がもたらす認識への作用
写真や映像といった視覚情報は、私たちに客観的な事実を伝達する上で有効です。一方で、音というメディアは、それとは異なる形で私たちの認識に作用します。音は特定の方向からだけでなく、空間全体から知覚され、聴覚情報として身体に作用します。この包括的な性質が、音を主観的な体験とし、感情や記憶と関連付けられる要因となります。
特定の周波数の音が心理的な安定感に寄与したり、不快な騒音が精神的なストレスを増大させたりするように、音環境は私たちの心身の状態に直接的な影響を及ぼす可能性があります。氷河の崩落音をヘッドフォンで聴取する際、私たちは単に情報を得るだけでなく、その場にいるかのような音響的没入感を覚え、地球規模の現象をより直接的な現実として認識するきっかけを得るのです。
この聴覚を通じた体験は、気候変動という問題を、統計データやグラフといった抽象的な情報とは異なる、物理的な現象として私たちの意識に提示します。それは、遠隔地で起きている現象と、現代に生きる私たち自身の存在を、音を介して結びつける試みといえます。
ポートフォリオ思考の拡張:共有資産としてのサウンドスケープ
当メディアでは、人生を構成する資産を多角的に捉え、その最適な配分を目指す「ポートフォリオ思考」を提唱してきました。私たちは通常、時間、健康、金融資産、人間関係といった、個人の人生に直接関わる資産に意識を向けがちです。
しかし、今回のテーマは、その視野を拡張する必要性を示唆しています。私たちが活動の基盤とするこの地球環境、そしてそこに含まれる多様なサウンドスケープもまた、私たち全員が共有する「集合的資産」であり、未来の世代へ継承すべき重要な「遺産」として捉えることができます。
生物多様性が生態系にとって不可欠であるように、音の多様性もまた、私たちの文化や精神的な豊かさにとって重要な要素であると考えられます。氷河の音をはじめとする「失われゆく音」は、一度失われれば再生が困難な、非代替的な価値を持っています。この認識は、環境問題への取り組みを、義務や制約としてではなく、私たち自身の集合的な資産を保全し、育むための、より能動的で創造的な活動として捉え直す視点を提供します。
まとめ
気候変動は、私たちの惑星から多くの要素を変化させていますが、その中には「サウンドスケープ」という、これまで十分に注目されてこなかった価値ある遺産も含まれています。氷河が発する音は、その代表的な一例です。
フィールドレコーディングという手法を用いて、この「失われゆく音」を記録し、芸術作品などを通じて社会に提示するアーティストたちの活動は、私たちに問題へアプローチする新たな方法論を提示しています。それは、論理や理性に訴えるだけでなく、私たちの聴覚と感情に働きかけ、地球環境との関係性を見直す契機となるアプローチです。
この記事をきっかけに、ご自身の身の回りの音環境に意識を向けてみてはいかがでしょうか。どのような音が聞こえ、どのような音が未来の世代に残されるべきだと考えますか。その問いが、環境との新たな関係性を構築する第一歩となる可能性があります。








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