学生時代に得られなかった承認、子どもの頃に持てなかった安心、若い頃に挑めなかった何か。それを大人になってから別の形で埋めようとして、埋めたはずなのにかえって渇きが深まる。そのような深層心理の作用があるといいます。
この記事が立てる問いは一つです。取り戻せなかったものを取り戻そうとする動きは、なぜしばしば、本人の意図とは逆の結果を生むのか。
答えの鍵は、満たされなかった時期の「窓」と、行き過ぎを補正してくれる関係の有無にあります。この二つを手がかりに、誰の中にもあるこの心理の落とし穴を、構造から解いていきます。
満たされなかったものは、消えずに心に残り続ける
人には、人生のある時期にしか得にくいものがあると言われています。赤ん坊の頃に育つ世界への安心感、子ども時代に遊びを通じて結ぶ仲間との関係、思春期に友人と秘密を分け合った夜。これらには、その年齢にその相手と経験するからこそ意味を持つ、いわば「窓」のようなものがあると考えられます。
窓が開いていた時期に得られなかったものは、ただ消えてなくなるわけではないようです。多くの場合、満たされないまま心のどこかに残り続けます。問題は、それが残るだけでなく、後の行動を静かに方向づけてしまうことにあります。
探索のエネルギーは、満たされなかった一点へ引き戻される
人にはもう一つ、常に新しい体験を求める性質があります。本来その好奇心は、どこへでも自由に向かえるはずのものです。ところが実際には、その探索のエネルギーが、閉じられなかった過去の窓のほうへ引き戻されやすいのです。
自由にどこへでも行けるはずの関心が、なぜか満たされなかった一点に戻っていく。新しいものを追っているつもりで、同じ場所を掘り返している。この引力こそが、取り戻しという行動の出発点になります。
後から手に入れたものは、当時欲しかったものと別物に変わる
取り戻しの最大の落とし穴は、後から手に入れたものが、当時欲しかったものと質的に別物に変わってしまうことです。わかりやすい例として、思春期に異性から関心を持たれなかった人が、大人になって経済力を得たあと、その関心を取り戻そうとする構図があります。一見すると取り戻しに見えますが、起きていることは別物です。
その人が本当に欲しかったのは、地位や金とは無関係に、対等な相手から選ばれるという承認だったはずです。ところが大人になって手に入れられるのは、その条件をすべて外した別物でしかありません。条件が変わった瞬間、それはもう、当時欲しかったものと同じではなくなります。
なぜ、後から手に入れても渇きが埋まらないのでしょうか。満たされなかった体験は、その時期に、その相手と、その条件で得られることに意味があったからです。時期も相手も条件も変えて再現したものは、見た目が似ていても中身が別物で、別物である以上、もとの渇きには届きません。
行き過ぎを止める関係を失うと、歪みは温存される
取り戻しがどこへ向かうかと同じくらい重要なのが、その行き過ぎを補正してくれる関係があるかどうかです。対等な仲間うちでは、誰かが行き過ぎたとき、別の誰かが「それはやめた方が良い」と止めます。この自浄作用があるおかげで、人の感覚は集団の中で少しずつ角が取れ、極端なところへ振り切れずに済みます。
ところが、ある種の成功や孤立は、この補正機能を静かに奪います。周りが雇われた側ばかりになり、率直に「それはおかしい」と言える対等な相手がいなくなる。すると、本来なら関係の中で補正されていくはずの感覚が、誰にも触れられないまま温存されてしまいます。
これは富や名声がある人だけの話ではありません。立場が上がるほど、人は自分に異を唱える関係を失いやすくなります。補正してくれる相手を手放したとき、満たされなかった過去の歪みは、修正されるどころか、そのまま固定されていきます。
動機を理解できても、行為の是非は別の層に残る
ここで一つ、混同してはならない区別があります。取り戻しの心理が説明してくれるのは、人がなぜそうしたくなったかという動機や、その歪みの構造までです。そこから先、実際に何をしたか、そしてそれが許されるかどうかは、まったく別の層の問題として残ります。
とりわけ、相手との間に大きな力の差があるとき、この区別は決定的になります。対等な者どうしなら許される行動でも、力の差がある相手に向けた瞬間、本人の主観が何であれ、それは別の出来事に変わります。受け取る側にとっての意味は、する側の動機とは無関係に決まるからです。
動機の理解は、行為の免責ではありません。なぜそうしたくなったかが説明できることと、それが起きてよかったかは、別の話です。むしろ、本人の主観を正確にたどれるほど、その理解は「どう思っていたか」の説明にとどまり、「何が起きたか」という問いとは噛み合わなくなっていきます。
この構造は、誰の中にもある
ここまでの構造は、特別な誰かの話ではありません。満たされなかった発達の窓は、程度の差こそあれ、誰の中にもあります。それを大人になってから別の形で埋めようとする動きも、多かれ少なかれ、誰もが日々おこなっています。
問題が生じるのは、二つの条件が重なったときです。一つは、埋めようとする相手や場が、本来のものと別物になっているとき。もう一つは、その行き過ぎを補正してくれる対等な関係を、失っているときです。
この二つは、富や名声がなくても起こります。ある種の成功や、静かに進む孤立は、誰の人生にも、この条件をそっと用意します。だからこそ、これは他人事ではなく、自分の問いとして引き受ける価値があります。
止める者を失ったときこそ、その問いを自分へ向けられるかが分かれ道になる
最後に残るのは、自分自身への問いです。満たされなかった窓を、自分は今どう埋めようとしているでしょうか。その相手や場は、本来のものと地続きでしょうか、それとも立場や条件を使って別物にすり替えていないでしょうか。
そして、自分の行き過ぎを止めてくれる対等な関係を、自分はまだ手元に残せているでしょうか。取り戻そうとすること自体は、人間的で、責められるものではありません。結果を分けるのは、その衝動が向かう先と、それを補正してくれる関係があるかどうかです。
成功や自由を手にしたときほど、この問いは重くなります。止めてくれる人が減っていく局面でこそ、その問いを自分自身へ向けられるかどうかを、一度立ち止まって確かめてみてはいかがでしょうか。






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