仕事や勉強に集中しようとするほど、焦りばかりが先に立って、机に向かっても文字が頭に入らない。そんな経験をされた方は、少なくないのではないかと思います。
多くの場合、これは集中力や意志の弱さの問題として受け取られます。けれど原因は、異なる場所にあります。
うまくいきたい、成長したいという願いそのものが、集中を奪っているのではないか。本稿はこの問いを、仕事や受験、スポーツの体験から、構造として検証したいと思います。
集中の反対は、怠惰ではなく、気が散ること
集中の反対は、怠惰ではありません。意識が未来と過去へ散ってしまうこと、それが集中の反対です。
不安は未来にあり、劣等感が過去にあるとします。落ちたらどうしよう、あの時こうだった——どちらも意識が「今ここ」から離れた状態です。そして意識が今から離れた分だけ、目の前の問題に注意が乗らなくなります。
だから、机に向かった時間の長さは、集中の量とは別物です。不安に半分持っていかれた一時間と、今に没頭できた一時間とでは、後から振り返ったときの今の積み重ねの結果がまるで違います。
自己啓発は、アクセルのつもりでブレーキを踏ませている
自己啓発が燃料として注ぎ込むのは、まさにこの「未来への前のめり」です。
こうなりたい、こう変われるという像を、強く焼き付けること。それはアクセルを踏んでいるつもりで、構造の上では、今への集中を奪うブレーキを踏ませていることになります。
もっとも、未来の像にしがみつくのは、自然なことです。先の見えない不安を、未来を握ることでなだめようとしているからです。ついつい安易なものにしがみつきたくなってしまうものです。特に自己啓発の書籍、セミナーは、何かをやっている感があるため、そういった意味でも安心する側面があるのでしょう。
未来は、設計するものではなく、今を積み重ねた結果
未来は、今に集中した時間が積み重なった結果であって、設計してつかみにいくものではありません。私自身、年齢を重ねれば重ねるほど強く感じます。
「こうなりたい」と未来を見つめている時間、人は今から目を離しています。今から目を離した分だけ、その未来は遠のいていきます。皮肉なことに、未来を最も確実に手にするのは、未来を忘れて今に没頭している人のようです。
目標を立てることが無意味だというわけではありません。進む方角の初期値として、最初に一度立てておくことは必要でしょう。ただ握り続けると、自身の目標に固執してしまうことになり、目の前の流れ、他者・家族・仲間よりも自分の立てた目標を優先してしまうので、立てたら一度手放した方が良いと経験的に感じます。
結果を決めているのは、意志ではなく、全体の流れ
実際に結果を決めているのは、その人一人の意志ではなく、その人が全体の流れに乗っているかどうかです。
人が「こうしたい」と思っても、それだけでは何も動きません。同じ努力でも、流れに乗っていれば押し上げられ、逆らっていれば押し戻されます。設計すべきは目標そのものよりも、どの流れに身を置くか、なのかもしれません。
そして流れを読むには、今この場で起きていることに、注意が乗っている必要があります。目標に意識を固定していると、流れが変わっても気づけません。今に集中することと流れに乗ることは、別の話ではなく、同じことの裏表なのだと言えます。
一流のプレーでは、本人の意志がむしろ消えていく
サッカーを観ていると、一流のプレーでは本人の意志がむしろ消えているように見えます。
下手な選手ほど、「自分はこうしたい」が先に立ちます。このコースに出したい、この形で抜きたいという像を握り、その像にボールと身体を合わせにいくので、盤面とずれていきます。
上手い選手は、自分の意志を先に置きません。ボールの転がり、味方と相手の配置、その場が要求する最適解に、ただ自分を差し込んでいきます。
没入を突き詰めると、最後には自我が薄くなる
没入を最高強度で突き詰めると、最後には自我そのものが薄くなるようです。
一流の選手が「考えていない」「勝手に身体が動いた」と言うのは、謙遜ではないのだと思います。判断する主体としての自分が、その瞬間だけ本当に薄くなっている、という報告に近いのではないでしょうか。
仕事や受験のときの集中も、何かに没頭している時間も、一流のプレーも、構造はおそらく同じです。意志を引っ込めて、流れと一体になっています。
願望は、構造として必ず「今」を欠落させる
順番に外していくと、最後に一番奥に残るのは、願望そのものです。
目標は願望を言葉にしたもの、成長は願望を時間軸に伸ばしたもの、自己啓発は願望を商品にしたものです。根はすべて一つで、未来に何かを置いて、今をその踏み台にするという形をしています。
そして願望は、構造として必ず今を欠落させます。「今ここにないものが、未来にあってほしい」という形でしか成り立たないので、願った瞬間に、今はそれが欠けている場所として定義されてしまうからです。
願望は未来を向き、幸福は今にある
願望が未来を向いているのに対して、幸福はいつも今この瞬間にしかありません。
過去の幸福は記憶であり、未来の幸福は予期であって、どちらも今ここで味わっている何かではありません。実際に幸福が起きるのは、いつも今だけです。
願望は未来にあり、幸福は今にある。注意の方向が、正反対なのです。願っている間、人は幸福が起きる唯一の場所から、気づかずに目を逸らしていることになります。
なぜ、強く願うほど、願ったものが遠のくのか?
強く願うほど結果が遠のくのは、願いそのものが今への集中を奪うからです。結果へ意識が向かうほど、目の前の一問や一つの動作から注意が外れ、精度が落ち、流れも読めなくなります。願えば願うほど遠ざかるというこの逆説は、意志の弱さではなく、注意の向きの問題から生まれているのだと思います。
ここから先は私の解釈ですが、おそらくブッダが執着と呼んだものも、これに近いのではないかと考えています。結果を強く願うことが執着を生み、執着が今への集中を奪い、かえって結果から自分を遠ざける。そういう構造です。
もっとも、私たちが願望を手放せないのは、弱さではありません。先の見えない不安を、未来に何かを置くことでなだめようとする、心の防衛でもあります。全人類は、何らかのナラティブが必要なのです。人間は高度な脳を手に入れることにより、過去と未来の概念を手に入れました。一方で、この概念があることにより、不安が生まれ、何らかのナラティブを必要としました。ですから願望は消し去るべき敵ではなく、むしろ消し去ることが人間の構造上不可能だと言えます。
願望は、消そうとするのではなく、気づくもの
では願望をゼロにすれば幸福かというと、そう単純でもありません。
願望のない状態を理想として握った瞬間、それ自体が新しい願望になって、また同じ入れ子に入ります。「執着するな」に執着するという、出口のない繰り返しです。だから願望を消そうとするのは、おそらく筋がよくありません。
私自身、散歩に行くことにすら、いつのまにか副次的効果を狙い、未来に重点を置くものになっていました。これをすればこういう効果がある、と。未来に重点を置いたものは、味わう前に値踏みされ、目の前にあるものを、あるまま受け取れなくなります。
未来に重点を置く癖は、消すよりも、気づくようにする
この癖は、消そうとするよりも、気づくことのほうが向いているようです。
未来に重点を置くのは、無意識で自動化された動きです。だから消そうとすると、消すこと自体が、新しい目的になってしまいます。
散歩の途中で「これは何の効果が」と考えている自分に気づいて、ああまた未来に行っていた、と眺めて、また今に視点を戻す。願望が湧いていることに気づける距離さえあれば、今に戻ってこられます。願望を持つな、ではなく、願望に気づいていられたら、という方法が考えられます。
成長を手放した先にしか、成長は訪れない
結局のところ、成長が楽しいのではなく、今この没頭が楽しいということが、何より大事なのだと思います。
「成長が楽しい」には、まだ未来に担保が残っています。今の没頭が後で何かになるから価値がある、という構造です。けれど「今この没頭が楽しい」は、未来を一切担保にしておらず、今ここで完結しているので、何にも変換されません。
面白いことに、成長を手放した先にしか、結果としての成長は訪れないようです。うまくなろうとした瞬間、今の自分は「まだ足りない状態」になり、今が欠けたものとして扱われてしまうからです。
今への没入は、満足度にも、結果にも、最短の道です
今に沈むことは、その瞬間の満足度を上げるだけでなく、結果としての成果へ向かう最短の道でもあるようです。
仕事のスキルも、積み上がっていく資産も、後から振り返れば、未来を忘れて目の前に沈んでいた時間の堆積でできています。人生の満足と、ポートフォリオの成果は、同じ一点、つまり「今」から伸びているのだと思います。
もし焦りで手が止まっているなら、まずは目標をいったん脇に置いて、目の前の一つに沈んでみる。そんな付き合い方を試してみてはいかがでしょうか。不安の中では勉強ができなかったあの感覚は、はじめから答えを示していたのかもしれません。


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