特に用事があるわけでもないのに、ドライブがてら母校の前まで来ました。かなり久しぶりのことです。20年ぶりです。
自宅から車で1時間30分ほどでしょうか。遠い場所にある高校です。中には入れません。卒業生だと言ったところで、いまのご時世は止められます。だから外から眺めます。校舎は当時のままでした。
この行動は、恐らく成仏できていない何らかの感情があるからなのでしょう。卒業からもう約20年も経っています。どこかに置いてしまいたいのに、置けない感情があるのだと思います。
この記事が答えようとするのは、たった一つの問いです。
「なぜ、置けないのか」
同じように、過去のある時期の感情を消化しきれずに抱えている方に、その感情がどういう構造でそこに留まっているのかを、一緒に解いていきたいと思います。
無関心になれない相手の意味は?
本当にどうでもいい相手のことは、人は関心すらしません。わざわざ遠い場所まで足を運んだりもしません。だから何らかの感情があるというのは、裏を返せば「まだ決着がついていない」という意味でしかないと感じました。
校舎が建て替わらずに残っていることも心にきました。容れ物がそのまま残っていると、中身の記憶も生々しいまま保存されます。もし中に入れたら、こんなものだったかと拍子抜けして、記憶は更新されたかもしれません。けれど外から見ているうちは、当時のまま冷凍保存され続けます。私の感情は、約20年前のあの場所に、凍ったまま留め置かれていました。
やり残したこと、そして、その感情
母校の前で当時のことを思い出していました。
その高校は附属校でした。大半の生徒は、エスカレーターでそのまま上の大学に進みます。外部の大学を一般受験するのは学年で数人。予備校に通っているのは私を含めて数人でした。つまり「外の大学を目指して勉強する」という行為そのものが、その環境では完全な異物だったのです。
英単語帳を開いているだけで、ガリ勉だといじられました。だから隠すしかありません。学校では、予備校に通っていることも言いませんでした。自分が一番努力しエネルギーを注いでいることをその場では一番隠さなければならなかった。私はステルス的な二重生活を送っていました。
更にあることを思い出しました。中学の同級生が、たまたま同じ予備校にいました。彼は、男女の友達たちと仲良く、楽しそうに予備校へ通っていました。同じ空間にいるのに、向こうにとってそれは仲間と過ごす時間で、私にとっては素性を伏せて一人で来ている潜入者の時間でした。同じ場所、真逆の体験です。あのときに覚えた感情は形容しがたいものでした。
結論はこうなります。私がやり残したこととは自分を出せる場所でした。承認されたいというよりも、自己表現の場所だったのです。
「あの時、やり残した何か」という物語が、事実の検証を止めていた
20年前の構えは、いまも続いています。
中学三年の時点で、私は勉強ができなさすぎて、進学ではなく就職や定時制の進路を勧められるほどでした。そこから死に物狂いで偏差値を上げて、この高校に入りました。さらに高校で偏差値を大きく伸ばし、一般受験で大学に入っています。そして私はこの高校でバンド活動をし、一年の秋には軽音楽部の部長になり、吹奏楽部も兼務し、高校外でも複数のバンドに入り、バンド活動に没頭しました。これは空白ではありません。むしろ、かなり濃い三年間だったと言えます。
それでも私は長いあいだ、この三年間を「やり残した何か」として感じていました。なぜそんなことが起きたのか。答えは、「あの時、やり残した何か」という物語が、事実を見えなくしていたからです。
いまも私は、顔と名前を伏せて発信している
多くの人は、自己表現をする時に、顔を出して自分のキャラクターを表現したいと考えます。私はそうなりたくありません。発信はします。思考は全部出します。けれど、自分そのものは隠します。サラリーマンとしての勤め先との兼ね合いもあるのですが、個人的にも顔を出して自分のキャラクターを出したくないのです。
これは、17歳のあの頃と、構造が同じだと思うのです。単語帳は開く。けれど、開いていることは誰にも見せない。私はいまもそれを続けています。
私自身は、これを自由のための選択だと説明してきました。顔を出せばキャラクターを背負わされ、一度背負えば、その像を維持するために行動が縛られます。期待に応え、ブランドに奉仕することになる。出力に身元を紐づけないのは、それを避けるための主権だ、と。自己をブランド化して像に奉仕すること、それ自体が一つの落とし穴であり、私はそこに落ちないよう設計しているのだ、と。
防御と主権は、動作が同じだから検証されない
けれど、ここに厄介な問題があります。「自由のための主権」と、「17歳の警戒心の延長」は、動作としてまったく同じ形をしているのです。
自分を出すと損をし、浮き、孤立する。その環境では、「出さない」が最適解でした。それで何年も身を守れてしまった。うまくいった適応ほど、深く根を張ります。だからいま顔を出さないのが、成熟した戦略なのか、それとも17歳の警戒心がまだ動いているのか、外形だけ見ても切り分けられません。
そして「自由のため」という理屈が正しいおかげで、私はその切り分けを、一生せずに済む構造の中にいます。防御と主権が、同じ行動をそろって支持している。だから、どちらが本当の動機なのかを検証する機会そのものが、生まれません。先ほどの仕組みが、現在形でもう一度働いているのです。意味づけが、検証を免除している。
「原動力だった」という意味づけが、荷物を下ろせなくする
直前の見出しのセンテンスが根深いところです。
私はずっと、あの経験を自分の原動力だったと考えてきました。隠しながら一人で偏差値を上げきった執念。出せない環境を生き延びた粘り。それが、いまの自分を駆動している、と。けれど最近、順番が逆かもしれないと思うようになりました。原動力だったから捨てられないのではなく、捨てたくないから、原動力だったことにしているのではないか、と。
山登りに例えてみます。重い荷物を背負って、ずっと登ってきました。その荷物が、本当に登る力になっていたのか、それとも、ただ重かっただけなのか。本当のところは、わかりません。なぜなら、荷物を背負ったままの登山しか、経験していないからです。軽ければどう登れたのか、比較する対象が、どこにも存在しないのです。
だから「逆境があったから執念が出た」も、「なければもっとクリエイティブだった」も、どちらも検証できません。前者は荷物を持ち続けるための口実で、後者は荷物を手放せないことへの言い訳です。両方とも、荷物を一度下ろして登り直すことができない以上、永遠に確かめようがない。
ここで、過去と現在と荷物が、一本の線でつながります。「あの時、やり残した何か」という物語が事実の検証を免除し、「自由のための匿名」という意味づけが警戒心の検証を免除し、「原動力だった荷物」という意味づけが、荷物を下ろす検証を免除する。三つとも、同じ一つの仕組みです。都合のいい名前を与えた瞬間、人はそれを確かめなくて済むようになる。そして確かめないまま、時間だけが過ぎていきます。
気づくのに20年かかったのは、構造がそう設計されているからだ
ここまで来て、なぜ気づくのにこれほど時間がかかったのかが、見えてきます。
意味づけが検証を免除するということは、裏を返せば、気づく動機を奪うということです。原動力だと意味づけている限り、それを下ろして確かめてみる理由が、そもそも生まれません。だから、確かめないまま20年が経ちました。これは、怠けていた等という性格のものではないでしょう。意味づけが検証を免除するという構造が、設計図通りに、正確に働いた結果なのです。
この順番は、いま同じような荷物を抱えている方にこそ、知っておいてほしいことです。過去の感情を消化できずに何年も抱えているとき、それを自分の弱さや、未練がましさのせいにしてしまいがちです。けれど、そうではないのかもしれません。何かに都合のいい名前を与えてしまうと、人はそれを確かめられなくなる。だから、気づくのに時間がかかる。これは、性格の問題ではなく、構造の問題です。
荷物の名前を、もう一度確かめてみる
私はいま、40歳手前になって、ようやく創れるようになってきた実感があります。それは、荷物を背負い続けてきたおかげではなく、その荷物を「原動力」と呼ぶのを、やめたからかもしれません。原動力という名前が外れたとき、はじめて、それを下ろしてみる選択肢が生まれました。
この感情は母校の前にドライブに行かなければ抱かなかった感情です。
20年かかりました。正直に言えば、もっと早く気づけたらよかったと思っています。けれど、気づくのに時間がかかったこと自体には、理由がありました。意味づけが検証を免除する構造の中にいる限り、人はなかなかそこから出られません。だから、まだ置けずにいる感情があったとしても、一旦はそのままで良いのかもしれません。
もし、あなたがいま、何かを「自分の原動力だ」と思いながら、どこか重く感じているなら、その重さのほうが正直なのかもしれません。一度、その荷物につけた名前を疑ってみる。それは本当に原動力なのか、それとも、捨てたくないから、そう呼んでいるだけなのか。確かめるために必要なのは、勇気よりもまず、名前を外してみることなのだと、いまは思います。
検討するに値する問いかどうかは、その荷物が、あなたにとってどれくらい重いかが、教えてくれるはずです。





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