日本の組織の曖昧さは、関係を切らないための装置である

誰の手柄か分からない。評価の基準が見えない。あの人が何をしたのか、自分が何を評価されたのか、最後まで明示されない。そして貸し借りだけが延々と続いていく。

日本企業の曖昧さがおかしい、と検索したことがあるかもしれません。出てくる答えは、驚くほど一致しています。曖昧さは隠蔽であり、搾取であり、非効率である。だから明確にせよ。役割を定義し、責任者を一人決め、成果を数値で測れ、と。

この記事が立てる問いは違います。

もし曖昧さが搾取の道具でしかないなら、なぜそれは千年以上も生き残ったのでしょうか。搾取される側が、それだけの期間、我慢し続けたことになります。その説明が要るはずです。

目次

上位に並ぶ答えは、曖昧さの背後に誰かの私利を読み取る

曖昧さを検索して出てくる記事は、系統は違っても結論が揃います。

ある情報では曖昧さは偶然の文化現象ではなく制度設計の必然的な帰結であるとし、上層側の合理的なメリットを4つ挙げます。報酬を出さないため。成果を吸い上げるため。権力を維持するため。責任を回避するため。そして米国のDRI文化と欧州のジョブ型を対置し、日本の合議制を権力強化のツールだと結論づけます。

別の情報では、米国での実務経験から論じます。米国では役割が明確に付与されるが、日本では曖昧にあの先輩と一緒にと言われるだけである。だから誰がやるべき仕事かが分からず、評価する方法もなく、生産性が低い、と。

また別の記事は、行動評価の曖昧さを問題にします。評価者と被評価者の認識にずれが生じ、納得感が失われる。だからスキルと成果という具体的で客観性の高い基準に転換せよ、と。

三つに共通するのは、曖昧さ=隠蔽・搾取・非効率という等式です。そして最初の記事が読み取る上層の私利は、書き手の推定であって、当人が表明した意図ではありません。

確かに曖昧さがもたらす痛みはある

先に、はっきり書いておきます。

曖昧さがもたらす痛みは実在します。企画を通した人が責任者から外される。成果は上に吸い上げられ、失敗は現場に降りてくる。何を基準に評価されたのか最後まで分からない。この状況で消耗し、自分の価値まで疑い始める人がいます。

この記事は、その痛みを構造の話で相殺しようとするものではありません。曖昧さには機能がある、という話を、我慢を推奨する文脈では書きません。

ただ、痛みの原因の見立てが違うと、対処も変わります。だから構造を見にいきます。

支払いという行為は、もともと関係を終わらせることだった

ここから構造の話をします。

英語のpayという語の語源を辿ると、意外なところに行き着きます。

語源辞典etymonlineによれば、1200年頃の英語paienは「なだめる、鎮める、満足させる」の意でした。古フランス語paierを経て、ラテン語pacareに遡ります。pacareは文字通り「平和にする」であり、その語源はpax、つまり平和です。中世ラテン語では特に「債権者を満足させる」の意を持ちました。財やサービスの対価を支払うという意味は中世ラテン語で生じ、英語では13世紀初頭に確認されます。そして「なだめる」という意味は、1500年までに英語から消えました。

つまり支払いとは、もともと相手をなだめて、揉め事を平和に収める行為でした。

なだめて、終わらせる。ここが重要です。支払いは関係を作る行為ではなく、関係の緊張を解消して、区切りをつける行為として始まっています。

数量化された瞬間、相手が誰かは問題でなくなる

人類学者のデヴィッド・グレーバーは、2011年の著作『負債論』で、これに関わる決定的な指摘をしています。

グレーバーは、義務と債務を区別します。債務は正確に数量化できるという点で、他のあらゆる義務と異なる。そして数量化できるからこそ、債務は単純で、冷たく、非人格的なものになり、その結果として譲渡可能になる、と。

彼はこう説明します。誰かに恩義を負っているなら、それはその人に対して負っている。しかし12パーセントの利息で4万ドルを負っているなら、債権者が誰であるかは問題にならない。どちらの当事者も、相手が何を必要とし、何を望み、何ができるのかを考える必要がない。恩義や敬意や感謝であれば、必ず考えることになるのに。

ここが核心です。数量化は、相手を人格として扱う必要をなくします。

グレーバーはさらに、物々交換が誰との間で行われるかを指摘します。それは他人との間であり、二度と会わない可能性の高い相手との間である、と。だから一対一の直接交換が適切になる。互いに取引を済ませて、立ち去るからです。

一方で隣人同士はどうか。グレーバーの例では、ジョシュアが靴を渡すと、ヘンリーは一つ借りができます。返し方は無数にあり、じゃがいもかもしれないし、一年後の豚かもしれない。両者が隣人であるかぎり、いま相手が欲しいものを持っているかという問題は消えます。いずれ持つことになるからです。

Q:日本の組織で誰の手柄か曖昧なのは、なぜですか。
A:手柄を明確にすると、その手柄は数量化され、清算できるようになります。清算できるということは、関係を終わらせられるということです。切って終われる関係は、そこで終わります。曖昧なままにしておくと、貸し借りが残り続けるため、関係も続きます。日本の組織の曖昧さは、隠すための仕組みである前に、切らないための仕組みとして機能してきたと考えられます。

「水くさい」という非難は、清算するなという圧力である

ここからは私の解釈です。学説ではないので、そのつもりで読んでください。

日本語には、清算を拒む表現が異様なほど揃っています。

「お世話になっております」。これは、返しきれていないという宣言です。取引が完了していないことを、挨拶のたびに確認し合っている。

「おかげさまで」。誰のおかげかを特定しません。特定すれば、そこに返済先ができてしまうからです。帰属を曖昧にしたまま、感謝だけを置いていく。

そして「水くさい」。これは、金銭できれいに清算しようとした者への非難です。なぜ非難になるのか。清算は関係の終了を意味するからです。清算しようとする者は、この関係を終わらせようとしている、と受け取られる。

三つとも、同じ構造の表現です。清算するな、切るな、という圧力です。

これは日本に固有というより、退出できない共同体一般に共通する型かもしれません。村を出られない社会では、清算は敵対行為に近くなります。明日も明後日も顔を合わせる相手と、きれいに帳尻を合わせてしまったら、次に会う理由がなくなる。

曖昧さは、搾取の道具である前に、切らない装置だった

ここで、他であたった情報の分析に戻ります。

曖昧さは上層の私利によるものだ、という読みは、部分的には当たっていると考えられます。手柄が曖昧なら報酬を出さずに済むのは事実です。

ただ、この読みには時間軸の説明がありません。搾取の道具でしかないものが、千年単位で生き残ることは考えにくい。搾取される側が離脱するか、制度が壊れるかのどちらかになるはずです。

生き残ったとすれば、搾取される側にも何かがあったと見るほうが自然です。

その何かは、たぶんこれです。曖昧なままにしておくと、誰も抜けられない代わりに、誰も見捨てられない。

数量化されないということは、あなたの貢献が測られないということです。同時に、あなたの貢献不足も測られないということです。今期成果が出なかったという事実が、数字として立ち上がらない。だから、切られない。

曖昧さは、評価しない装置であると同時に、切り捨てない装置でもあります。この二つは、同じ一つの仕組みの表と裏です。

ここが、この記事の核心です。曖昧さの機能は隠蔽ではなく、清算の拒否です。そして清算を拒否するかぎり、関係は続きます。

曖昧さのコストを、正直に書いておく

公平を期すために、逆側も書きます。

切り分けられないということは、逃げられないということでもあります。

貢献が測られないなら、正当に評価されることもありません。人事評価の仕組みは、たいてい測れるものを測るように作られています。測られないものは、存在しないのと同じ扱いになる。だから曖昧さの中で最も損をするのは、測れる成果を出した人です。

そして、清算されない負債は、無限責任に転じます。義理も人情も、返しきれないという構造の上に立っています。返しきれないから続く、を裏返せば、いつまでも解放されない、になる。年貢も、村八分も、戦後の企業への全人格的な献身も、同じ構造の上にありました。

切り分けられないことは、優しさの形にもなるし、逃げ場のなさの形にもなります。同じ仕組みが、両方を生みます。

だから、曖昧さを一律に肯定することはできません。

判断基準は、何が清算されるかで見分ける

では、あなたはどう見分ければよいのでしょうか。

渡せる基準は一つです。あなたの組織の曖昧さが、何を清算していて、何を清算していないかを分けて見てください。

見るべきは、報酬の側です。貢献が曖昧なまま、報酬だけが毎月きれいに清算されているなら、それは切らない装置ではありません。関係としては切らないのに、金銭としては切っている。これは両方の悪いところを取った状態です。

逆に、貢献が曖昧で、報酬も清算されていないなら、つまり成果が出ない期間も会社があなたを食わせているなら、それは切らない装置として機能しています。

判断の分かれ目はここです。曖昧さと引き換えに、あなたは何を受け取っているか。切られない保証を受け取っているなら、曖昧さはその対価です。何も受け取っていないなら、それは曖昧さの形をした別のものです。

この見分けは、あなたが今いる場所を測る物差しになると考えられます。

明確さは万能ではなく、切ることの別名でもある

もう一つ、上位記事が勧める明確化についても書いておきます。

役割を定義し、責任者を一人決め、成果を数値で測る。これは正しい処方に見えます。実際、多くの痛みは、これで解消します。

ただ、明確化とは何をすることか。グレーバーの指摘に戻れば、数量化することです。そして数量化された関係では、相手が誰であるかは問題でなくなる。

明確にするとは、清算できるようにすることであり、清算できるとは、終われるようにすることです。

だから明確化を選ぶとき、あなたは同時に、切られる可能性も選んでいます。測られるということは、測って足りないと判定されうるということだからです。

これは明確化が悪いという話ではありません。測られたい人にとって、明確化は解放です。ただ、明確化は無料ではない、という話です。

曖昧さという虚構から降りて、清算されているものを見る

この記事の答えをまとめます。

日本の組織の曖昧さは、隠蔽や搾取である前に、清算を拒む仕組みとして機能してきたと考えられます。支払いという行為はもともと相手をなだめて終わらせることであり、グレーバーが指摘するように、数量化された債務は相手が誰であるかを問わなくなります。清算できる関係は、清算した瞬間に終われる関係です。

だから曖昧さは、誰も評価しない代わりに、誰も見捨てない装置として立ち上がりました。そして評価されない痛みと、見捨てられない安心は、同じ一つの仕組みの表と裏です。

渡せる判断基準は一つです。あなたの組織で、何が清算されていて、何が清算されていないかを分けて見てみてはいかがでしょうか。貢献が曖昧なまま報酬だけが毎月清算されているなら、それは切らない装置ではありません。曖昧さの対価として、あなたが何を受け取っているのかを確認してみてください。

曖昧さがおかしいという違和感は、正しいかもしれません。ただ、おかしいのは曖昧さそのものではなく、曖昧にする層と清算する層の組み合わせのほうかもしれません。

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