楽しむためだけにやっていたはずのことが、いつのまにか「上手くやらなければ」「どうせなら成果にしたい」という思いに変わっていき、それが義務的になってしまい、楽しみを見いだせなくなってしまう。趣味でも、創作でも、休む時間でも、そういう経験をお持ちの方は少なくないと思います。
多くの場合、これは意志が弱いからだと受け取られます。けれども私の実感では、原因は意志ではなく、活動の構造の側にあります。
この記事では、好きなことが義務に変わっていく仕組みを分解したうえで、それを意志ではなく構造で防ぐ方法——人生をポートフォリオとして持つという考え方をお渡しします。
目標を一つ持つと、思考は活動全体を最適化へと塗り替えます
目標を一つ持つだけで、思考は活動全体を、その達成のための最適化に塗り替えてしまいます。これは私自身の頭の動き方を観察して、繰り返し確かめてきたことです。
たとえば「週に二曲を仕上げる」と決めたとします。すると次の瞬間には、どの曲を選ぶか、どう効率よく録音するか、どうすれば多く聴かれるか、と逆算が始まります。目標が一つ入っただけで、思考が連鎖し、活動の全体が成果のための手段に変わっていきます。
子ども向けの番組に出てくるピタゴラスイッチのようなものです。最初の一個が倒れれば、あとは自動的に最後まで倒れていきます。これは意志が弱いからではなく、長年「目標から逆算して成果を出す」回路で動いてきた結果なので、この連鎖を意志の力で止めることはできません。
もちろん、ビジネスの現場では給与以上の成果を求められるため、目標を否定するものではないのですが、趣味の世界における義務感の構造は今挙げたところにあるでしょう。
無目的の領域に目的を一滴垂らすと、領域全体が目的に飲み込まれる
無目的でいたい領域に目的を一滴でも垂らすと、その一滴が領域の全体を染めてしまいます。私にとっての20歳の時の音楽が、まさにそうでした。当時は気づかなかったのですが、今振り返るとそうです。
音楽は、上手くなるためでも、稼ぐためでも、知られるためでもなく、ただ鳴らしたいから鳴らす場所でした。ところが「せっかくだから上手くなろう」と思い、活動が義務に変わり始めました。「どうせなら録音しよう」と思えば出来を採点する自分が現れ、「出すなら聴かれたい」と思えば動員数が頭をよぎります。
私は、同じ音楽の中で目的のある部分とない部分を共存させられないか、ずいぶん試しました。けれども私の場合は、一つの括りの中に両方を同居させると、目的の側が全体を飲み込んでしまう傾向がありました。だから音楽は、中で線を引くのではなく、領域ごと無目的の側に置くことにしています。これも現在の私のポートフォリオです。本業で十分な稼ぎがあるからこそ、完全に無目的な活動でいられるのです。
目的の連鎖は意志では止まらない
目的の連鎖は、意志で目標を持たないようにしても止まりません。
連鎖には起点があります。発表する、成果にする、誰かに届ける——そうした出口があるからこそ、そこへ向かって逆算が始まり、最初の一個が倒れます。逆算する先がなければ、目標は立てようがありません。
だから私は、ある種の創作を、最初から「録音しない、人に見せない、どこにも出さない」と決めてしまいます。誰にも聴かせない即興のように、出口がなければ、上手くやろうという目的の生まれる余地もありません。意志で無目的を保つのではなく、目的を持ちようのない場所を構造としてつくる——これが、自分の思考の癖に逆らわずに無目的を残せた、ほとんど唯一の方法でした。
前借りの義務を生む収益化は、無目的の領域と相性が悪いものです
創作を収益化するとしても、すべての方法が同じではありません。私の中で線を引いているのは、「前借りの義務」が発生するかどうかです。
サブスクリプションやファンクラブは、お金を先に受け取る仕組みです。受け取った瞬間に、まだ作っていないものへの対価が生まれ、「次も出さなければ」という無意識の義務が、未来の自分を縛り始めます。一方で買い切りは、すでに出来上がったものへの事後の対価なので、前借りがなく、売れても売れなくても私は何も負っていません。
サブスクリプションは未来に対して払われ、買い切りは過去に対して払われます。この違いは大きく、前者は私を縛り、後者は縛りません。だから無目的のまま残したい領域には、継続課金ではなく買い切りだけを置く、という線引きが成り立ちます。
反応は、楽しむことはできても、目標にすると領域を侵します
同じ論理は、お金以外にも広がります。出したものへの反応を、ただ眺めるのは「観測」です。けれども、反応を目標にして、それに向けて出すようになると、それは義務に変わります。
「観測」であれば、聴かれても聴かれなくてもいい、という状態のまま、反応をただ味わえます。義務になった瞬間に、再生数や評価が逆算の起点となり、ピタゴラスイッチがまた動き出します。同じ「反応を見る」という行為でも、観測か目標かで、結果は正反対になります。
無目的の領域を支えるのは、別にある安定した土台
無目的の領域を無目的のまま保てるのは、その活動に生活を依存させていないからです。正直に言えば、私が創作にこうした線を引けるのは、本業に十分な収入があり、その見込みも立っているからにほかなりません。
もし収入が創作に依存していたら、安定したサブスクリプション収入を取りに行かざるを得なかったはずです。継続課金の義務を、引き受けるしかなかったでしょう。創作の純度は、それを「稼ぐ手段」にしなくてよいという土台の上で、はじめて保たれます。
これは規模の大きな収入である必要はありません。要は、休息や創作にあたる活動へ、回収の責任を負わせないということです。別のところに安定した土台があるほど、ある活動を成果の圧力から自由なままにしておけます。これ自体が、一つの資産がもう一つの資産を支える、ポートフォリオの発想です。
人生も、性質の違う資産を混ぜずに持つほうが安定
ポートフォリオの本質は、全資産を同じ性質で持たないことにあります。性質の違うものを混ぜずに分けて持つからこそ、全体が安定しやすくなります。
私はこれを、お金だけではなく、時間や趣味などにも広げられると考えています。仕事は成果を得るための区分として、音楽やぼんやりする時間のような無目的の活動はリターンを求めない区分として、別々に扱うのです。
大切なのは、各資産に違う役割を与えることです。音楽の役割は安定資産で、増えなくてよく、減らなければよいものです。けれどもそこにリターンを期待した瞬間、安定資産が成長資産に結果として化けてしまいます。
別の記事でも書きたいと思いますが、仕事という観点でも金銭的な成果を追うのか?目の前のお客さまへ価値創造を目指すのか?この点でも大きな違いが出てくるのですが、ドラムを叩く時のように緩急をつける必要があると考えています。仕事だから何でもかんでも成果を求めるべきだ、というわけではないのです。ある意味では成果がすべてなのですが。この話は別の機会に。
目的のある活動とない活動は、釣り合わせるのではなく分けて持つ
目的のある活動とない活動は、一つの器の中で釣り合わせるのではなく、別々の口座として分けて持つほうが安定します。両方を一つの器で釣り合わせようとすると、一滴が全体を染めるのと同じ理屈で、どうしても目的の側に傾いていきます。
たとえば私の場合、文章を書くことと音楽は、どちらも世に出ますが、自分の中では別の口座にあります。そして音楽も文章も両方とも、リターンを取りに行く資産ではありません。音楽は音を、文章は考え方を、ただ外に出す場であって、目標をもっておらず、義務もなく、反響を楽しむだけのものです。
性質の違うものを混ぜず、別の口座として持ち、それぞれに違う役割を与える。お金でよく語られるポートフォリオを時間と心にも広げるだけのことなのです。
無目的の領域は、意志ではなく設計によって残せます
好きなことが義務に変わるのは、意志が弱いからではなく、目標を持つことや前借りの義務、そして一つの器で釣り合わせようとする構造が、目的の連鎖を呼び込むからです。だとすれば、対処もまた意志ではなく、構造の側にあります。
純粋に楽しみたい活動があるなら、それを意志で守ろうとする前に、その活動に目標があるか、前借りの義務が紛れ込んでいないかを見てみてはいかがでしょうか。そして、目的のある活動とない活動を一つにまとめず、別の口座としてポートフォリオを分けて持つ。そういう方法が考えられます。
人生を、ポートフォリオとして持つ。性質の違うものを混ぜず、それぞれに違う役割を与える。長くお金でやってきたこの感覚を、時間と心にも広げること。それが、増やさなくてよい領域を、増やさないまま手元に残しておく方法なのだと思います。








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