昔の私の話です。休みの日に、ウェブ動画を眺めていました。数分で終わる、たわいもないものです。見終わっても何も残りません。ただ面白い、それだけの時間でした。
けれど見ている最中に、罪悪感が湧いてきます。もっと意味のある使い方があるのではないか、この時間で生産性のある時間を過ごせたのに、と。楽しいはずなのに、楽しみきれない。休んでいるはずなのに、休めていない。
私自身20代のときは休み無しに仕事に邁進してきました。時代背景もあったのだと思いますが、それが当たり前でした。結果、30代半ばで年収は1,000万円を超え、労働時間も1日4〜5時間という生産性の領域に到達しました。しかしながら、今にして思えば、休んでいる時間も仕事のアイデアが止まらず、頭の中では仕事をしていました。上流工程の仕事をしていればよくあるパターンだと思います。
この記事を読んでいる方の中には、この感覚に心当たりがあるかもしれません。なぜ有用性を磨いてきた人ほど休めなくなるのか。その先に残された伸びしろは、どこにあるのか。一つの体験から、その構造をたどってみます。
休み方を最適化しようとした瞬間、休みは課題に変わる
休めない原因は、休む対象ではなく、休もうとする姿勢の側にありました。
最初は「正しい休み方」を探そうとしました。たわいもない動画が罪悪感を生むなら、もっと有意義な休息があるはずだと考え、散歩や瞑想、トレーニングなどを思い浮かべます。けれど休み方を最適化しようとした瞬間に、休みそのものが課題へと変わってしまうのです。
どう休めば効果的かを考えている時、人はもう休んでいません。対象が企画書から休息に変わっただけで、評価し、最適解を探すという仕事のモードがそのまま動き続けているからです。鍵は何を見るかではなく、評価せずにいられるかのほうにあります。
有用性で伸びてきた人間の伸びしろは、有用性の外にある
評価が止まらないのは、私が有用性を磨くことで自分を伸ばしてきたからでした。
成績も、仕事の成果も、趣味の上達でさえ、いかに効率よく有用な結果を出すかという軸の上にありました。その軸ではそれなりに高いところまで来た一方で、残された伸びしろはこの延長線にもありますが、他の方法があることに気づきます。次の課題は、無駄を楽しむこと、無目的を楽しむこと、というこれまでの軸と直交する方向にありました。
考えてみれば、これは構造的な必然です。
一つの軸で高い場所まで来れば、そこからの伸びは逓減し、未開発のまま残された領域ほど伸びしろは大きい。有用なことが得意な人ほど、最後の課題が「無駄ができること」に置かれるのだと思います。
「役に立つから」で正当化した瞬間、無駄は無駄でなくなる
ここで多くの人が、次の落とし穴にはまります。無駄なことに価値を見出そうとして、「これも実は役に立っている」と考えてしまうのです。
ぼーっとする時間が創造性を生む、雑談が人間関係のレバレッジになるという失礼な発想。無関係な経験がいつか仕事に転移するとする発想。どれもある程度は事実です。けれど、これらはすべて無駄を有用性で正当化する動きであり、その瞬間に無駄は無駄でなくなります。「創造性のため」と過ごす時間には損得の計算が走り、「レバレッジのため」の雑談では道具扱いが相手に伝わって、狙ったものほど信頼は逃げていきます。
狙うと逃げる。これが無駄をめぐる逆説の核心です。無駄が何かを生むことはあっても、それは副産物として置くしかなく、動機に据えた瞬間に得られなくなります。無駄を無駄のまま扱えること自体が伸びしろなのに、有用性で正当化することは、その入り口を自分の手で塞ぐ行為なのです。
蓋をしてきたのは、楽しさではなく「制御を手放す感覚」だった
無駄をそのまま受け入れることがこれほど難しいのは、その奥にもう一段深い層があるからでした。
生産性のある時間は、やれば結果が出る、つまり制御できます。一方で無駄な時間は、何が起きるか予測できません。何も生まないかもしれないし、思わぬものが生まれるかもしれない、その制御できなさが本質です。
私が蓋をしてきたのは、楽しいという感情そのものよりも、その先にある「制御を手放す感覚」のほうだったのだと思います。動画を眺める数分間、私は何も制御せず、ただ流れに身を任せている。その無防備さに、身体が警報を鳴らしていたのでしょう。楽しさの本質が制御を手放して何かに身を委ねることだとすれば、制御を手放せない人間が楽しさに蓋をするのは、筋の通った反応なのです。
楽しいに、理由は要らない
では、どうすればよいのでしょうか。それは、楽しいに、理由を接続しないこと。それだけです。
面白いなら、面白い。そこで完結させて、「だから何の役に立つ」を後ろにつけない。役に立つかどうかを問わないこと自体が、蓋を外す練習になります。評価せずに過ごし、最適化しようとする手を止め、次の行動を損得で選ばない。楽しいから、ただそれだけの理由で何かをしてみる。
有用性の軸で十分に来た人にとって、これは負けではありません。後回しにしてきた最後の領域に、ようやく手をつけるということです。私自身まだ入り口に立ったばかりで、今でも動画を眺めながら罪悪感が顔を出すことがありますが、いちいち応答せず、湧いては流れる雑念として見送ることにしています。休みの日に、ただ楽しいから動画を眺める。理由は、要らないのです。







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