目立ちたがりの心理は、たいてい「承認欲求が強いから」で説明されます。認められたい、寂しい、自信がない。どれも間違いではありません。
しかし、その名前が付いたあとも、やめない人がいます。数字が合わないと指摘され、嘘がばれて、大勢に笑われて、それでもメディアに出続ける。承認欲求という言葉は、そこを説明しません。認められたいのであれば、笑われた時点でやめるはずだからです。
ここから挙げるのは、何人かを思い浮かべながら書いたものです。誰か特定の個人を取り上げている記事ではありません。
目立ちたがる人は、自分には何もないという感覚から出発している
自分を実際より大きく見せる人ほど、「自分には何もない」という感覚を出発点に置いています。
例えば、公開されている対話の中で、自分は何ももっていないと自己紹介する人がいます。聞かれてもいないのに、欠けているもののほうから話しはじめています。
この感覚が出発点にあると、次に選ぶ場所が決まります。学歴などで測られる場所には、はじめから行きません。
本人は、傷ついても立ち上がる主人公という自己認識を選んでいる
では、その人はどこへ行くのか。才能で勝てないなら、倒れた回数で勝てばいい。そういう物語を選びます。
子どものころから漫画やアニメの主人公になりたかった、その願いが自分の魂に刷り込まれた、と語る人がいます。この物語が、自分は何者かという定義そのものになっています。
この物語には、ほかの物語にない性質があります。失敗が減点になりません。倒れた回数が多いほど、物語のほうが強くなります。自分は誰よりも失敗している、恥をかいた数なら日本一だと言い、それを自分の言葉の重みの根拠にする人もいます。
人前に出すたびに、返ってくる反応がその物語を強くする
物語を自分の中に持っているだけなら、そこから先へは進みません。発信は外へ向けた行為に見えますが、いちばん強く受け取っているのは発信した本人です。
反応が返ってくると、その物語は本人の中だけの話ではなくなります。見ている人がいる、面白がる人がいる、応援する人がいる。それが、主人公という自己認識に、外からの裏付けを与えます。
だから本人は、一度で終わらせません。出るほど物語が確かになり、確かになるほど、また出る理由ができます。
物語が強くなるほど、自分を見たときに失うものが増える
人前に出ることを重ねると、何が変わるのか。高く積み上げたものほど、そこから降りるときに失うものが大きくなります。
Steeleは、人は矛盾そのものよりも、その矛盾が自分の有能さや道徳性を脅かすことのほうに反応すると述べています。そして人は、その脅威を解決しないまま、別の場所で自分を肯定することで全体を保てるとも書いています(Advances in Experimental Social Psychology、1988年)。指摘に答えるかわりに、誠実さや、失敗の多さや、楽しそうな姿を出す。それで本人の全体は保たれます。
ここから先は、筆者の解釈です。この段階まで来ると、本人にとって、自分を客観的に見ることが自分を守ることに反する行為になっていると思います。見た瞬間に、そこまでの人生の意味が一緒に崩れるからです。
本人が見ているのは、自分の動機だけである
自分の実際を見ないで済ませるには、別の評価の基準が要ります。誠実だったかどうかは、本人にしか確かめられません。
過去の失敗や炎上について、あのときの自分は一生懸命で誠実だった、だから後悔はない、と語る人がいます。自分の動機だけを見て評価している限り、結果がどれだけずれても、本人の中では嘘になりません。
しかも本人は、自分の動機が見えていません。NisbettとWilsonは、人は自分の判断が何に影響されたのかを内省では正しく言えないと報告しています。かわりに当てはめているのは、もっともらしい説明のほうです(Psychological Review、1977年)。
さらに、言葉の意味を自分で決められる立場にいると、申告と実際のずれは数字の上でも消えます。申告していた数字と、あとから測られた数字が何倍も違っていた。そこで出てくる説明が、専門用語を1つ持ってくる形になることがあります。その用語の定義に当てはめると桁が合わないのに、名前が付いた時点で説明されたことになっています。そして、途中でルールのほうが書き換えられます。
反論として作った説明であれば、桁は合わせるはずです。合わせていないということは、言葉を当てはめた時点で本人の中の処理が終わっている、ということだと思います。
批判と中傷が、本人の中で同じものになる
周りが事実を伝えても本人に届かないのは、本人が受け取り口を閉じているからです。まともな指摘と、ただの罵声を一度でも同じ言葉で呼ぶと、そのあと選り分ける手が止まります。
誹謗中傷を何万件も受けた、とひとくくりに語る人がいます。浴びせられた言葉の中には、数字の矛盾を指摘したものも混じっていたはずです。それも同じ言葉の中に入りました。
本人に残るのは、褒める声と、無視してよい声の二種類だけになります。この状態になると、正しさは外から入れられません。
周りの人は、突き進んでいる本人を止められない
では、周りの人はどうか。止める役を引き受けた人は、たいてい先に疲れます。
社員も家族も自分に口を出したことがない、と語る人がいます。言っても無駄だと分かっているから好きにさせてくれている、という受け取り方です。本人は、これを信頼として受け取っています。
止めようとする側にとって、話が通じない相手に言い続けるのは消耗になります。だから黙るほうが合理的になります。そうして、外の声が入る場所が最後の1つまで閉じます。
よくある疑問
Q:自分も同じようになっていないかは、何を見れば分かりますか。
A:自分の行動を説明するとき、結果を語っているか、動機を語っているかで分かります。一生懸命だった、悪気はなかった、相手のためを思っていた。ここで説明が終わっているなら、結果のほうは誰も確かめていない状態です。自分が言ったことと、実際に起きたことを1つだけ並べてみると、ずれているかどうかは見えます。
Q:周りにそういう人がいるとき、どうすればよいですか。
A:事実を伝えても届かないことが多いので、正面から止められるとは期待しないほうが現実的です。代わりにできるのは、指摘と罵声を自分の側で分けて渡すことです。まとめて扱われにくい形にしておくと、届く確率だけは上がります。
まとめ
目立ちたがる人が嘘を指摘されてもやめないのは、自分は何者かという物語を人前に出し、返ってきた反応でその物語を強めているからです。強まった分だけ、やめるときに失うものが大きくなります。途中からは、自分を疑わないことのほうが、自分を守る行動になります。
そうであれば、本人が自分を疑えるのは、その物語が強まりきる前だけということになります。発信している人ほど、早いうちに、自分の説明が動機で終わっていないかを見ておくと、あとで払うものが小さく済むのではないでしょうか。







