『ヤニねこ』がちゃんとしなきゃから解放するのは、かわいいからではなく、誰も反省しないからである

『ヤニねこ』の何が良いのか、うまく言葉にできない。タバコを吸って、唾を垂らして、安アパートを散らかしているだけの獣人たちの話なのに、読み終えると、なぜか少しだけ軽くなっている。

よく挙げられる理由は、だいたい3つです。登場人物が全員ダメなのに憎めない。くだらない内容に対して作画と声優が本気すぎる。下品な題材なのに描写が丁寧。どれも当たっていますが、軽くなる理由の説明にはなっていません。かわいいだけの作品なら、ほかにいくらでもあります。

この記事が立てる問いは違います。ちゃんとしなきゃに疲れている人が、あの作品を眺めているあいだだけ楽になるとしたら、そこでは何が起きているのでしょうか。

目次

ゆるめると決めた人は、決めた時点でまだ基準を握っている

その答えに入る前に、うまくいかないほうの道を先に確認しておきます。

ちゃんとしなきゃがつらいとき、世の中に流通している答えは、だいたい3つに絞られます。完璧じゃなくてもいい。まあいっかと声に出してみる。昨日の自分と比べる。どれも正しいことを言っていますし、疲れている人ほど、たいていはもう試したあとです。

それでも毎回、同じところへ戻ってきます。

ゆるめる、という言い方には主語があります。ゆるめるのは自分であり、何をどこまでゆるめてよいかを決めるのも、同じ自分です。

つまり許可を出す側と許可を受け取る側が一人の人間の中に同居しているわけで、ここが見落とされやすいところです。

そして許可には、必ず条件がつきます。今日は疲れているから。昨日は遅くまで働いたから。この条件は、そのまま基準の確認になっています。疲れていない日には許可が下りないという意味だからです。

だから休んでいる最中も、基準のほうは一度も消えていません。むしろ許可を出した回数だけ、基準は使われて強くなっていきます。戻ってくるのは意志が弱いからではなく、手続きがそういう形をしているからです。

反省しない人を眺めている時間だけ、こちらも反省を求められない

ここに、まったく別の経路があります。自分で自分に許可を出すのをやめて、許可という手続きが最初から存在しない場所を、外から眺めるという経路です。

『ヤニねこ』はにゃんにゃんファクトリーによる作品で、講談社の「ヤングマガジン」で連載されています。単行本は2026年8月時点で13巻まで刊行されており、同年7月からはテレビアニメの放送も始まりました。

第13巻の紹介文には、クズとかカスとか言われても、コイツらがムチャクチャやった跡に道はできるんだよ、多分、とあります。物語が進んでも、彼らの生活は一度も立て直されません。

彼らは反省しません。

だから読んでいるあいだ、こちらも反省を求められません。許可を出す必要がないのは、そもそも基準がページの中に存在しないからです。判断を経由しないので、緩むのに手続きが要りません。

ダメな人を描く物語の多くは、途中で反省を差し込んでくる

だらしない人物を描く作品なら、ほかにいくらでもあります。ただ、その多くはどこかで方向を変えます。

本当はいい奴だったと分かる回が来て、誰かのために動く回が来る。読者は安心し、そして同時に、ちゃんとしなきゃが裏口から戻ってきます。

反省が一度でも差し込まれると、そこまでの怠惰は状態ではなく逸脱として読み直されます。逸脱には正しい姿があり、正しい姿があるところには基準があります。免罪符は、そこで期限切れになります。

ここからは私の解釈です。この作品が13巻まで続いているのは、成長させたくなる誘惑に一度も負けなかったからではないでしょうか。長く続いていること自体が、負けなかったことの記録になっている。もちろん、これは因果として証明できる話ではありません。

一人でだらけている姿は、見ている側に助ける責任を生む

反省しないという条件だけでは、まだ足りません。もう一つ条件があります。

一人でだらけている人物を見ると、怠惰よりも先に悲惨さが立ちます。すると読む側に、なんとかしてやらないと、という視線が生まれてきます。

これは責任の再導入であり、休むために開いたページで新しい責任を受け取っていることになります。かわいそうだと思った瞬間に、こちらは眺める人ではなく、助ける側の人間として配置されているからです。

だらけている人が複数いると、それは逸脱ではなく暮らしになる

同じ生活を複数の人物が送っていると、意味が変わります。比較の基準が内輪で完結するので、外の規範が届かなくなるからです。

誰も浮いていない場所では、誰も直す必要がありません。彼らのあいだで交わされる会話も、生活を立て直す方向へは一度も向かいません。だらだらしていることが話題にすらならないので、読む側もそれを問題として見ずに済みます。

複数いることは、生活が成り立っているという担保にもなります。社会の要求から降りたあとにも日常が続いているなら、読む側は心配しなくて済みます。心配は、姿を変えた責任です。

仲間の中に説教役が一人いると、その場所ごと落ちる

ただし、仲間がいればいいというわけではありません。3つ目の条件は、その中に矯正する役が置かれていないことです。

説教する人物が一人でも配置されると、その場所は全体として直すべき場所に格下げされます。誰か一人が正しさの側に立った時点で、残り全員が間違いの側に置かれるからです。世話を焼く人物がいても、更生させるところまで踏み込まなければ、その線は越えません。

この距離感は、作り手の側からは相当に難しいはずです。一人くらい常識のある人物を置きたくなるでしょうし、そのほうが話も作りやすい。置いた瞬間に、読者が借りていた場所が消えます。

借り物で緩むことのコストを、正直に書いておく

公平を期すために、逆側も書いておきます。

この方法は持続しません。閉じれば元の場所に戻りますし、締め切りも、洗い物も、返していないメッセージも、何ひとつ変わっていません。これは解決策ではなく、基準が届かない時間を借りているだけです。

借りている自覚がないと、次はもっと長く借りようとするので、そこは切り分けておいたほうがいいところです。生活の側で無理が続いているなら、緩む時間をいくら増やしても足りません。借りた時間の長さと、無理の大きさは、まったく別の目盛りで動いています。

それから、作品には好みがあります。『ヤニねこ』は下品な題材を正面から扱うので、そこが受けつけなければ最初の数ページで終わります。3つの条件を満たしている作品でも、合わないものは合いません。

なお、眠れない、食べられない、朝起きられないといった状態が2週間以上続いているなら、これはこの記事の話ではありません。医療の領域なので、専門家に相談することを検討してみてください。

判断基準は、読み終えたあとに反省が湧くかどうか

自分に合う場所を探すときの基準は、閉じたあとに反省が湧くかどうか、この一つで足ります。

時間を無駄にした、という感覚が出てくるなら、その作品はどこかで基準を持ち込んでいます。これは面白かったかどうかとは別の話で、面白い作品ほど成長や再起を鮮やかに描くので、読み終えたあとにこちらの現在地を採点させてきます。

点検する項目は3つです。登場人物が反省するか。仲間の中に説教する役がいるか。一人きりで沈んでいないか。どれか一つでも当てはまるなら、そこは休む場所ではなく、採点される場所です。

よくある疑問

Q:ヤニねこは、なぜ面白いと言われるのでしょうか。

A:登場人物が誰も反省しないからです。だらしない人物を描く作品の多くは、途中で改心や成長を差し込んで読者を回収しにきます。この作品はそれをしません。反省が入らないので読む側も反省を求められず、眺めているあいだだけ、ちゃんとしなきゃという基準が届かなくなります。キャラクターのかわいさや作画の質は、その状態を長く保つための条件であって、理由そのものではありません。

Q:ちゃんとしなきゃという気持ちは、どうすれば手放せるのでしょうか。

A:手放そうと決める方法では、たいてい戻ってきます。決めているのが基準を持っている本人だからです。基準そのものが存在しない場所を外から眺めるほうが、判断を経由しない分だけ緩みます。ただしこれは一時的なもので、生活の側の条件を変える働きはありません。

消えない基準を、届かない場所へ置く

ちゃんとしなきゃが消えないのは、消そうと決めている人が、その基準の持ち主だからです。許可を出す形をとる限り、基準は使われ続けます。

消せないものは、たぶん消せません。できるのは、その基準が届かない場所を一時的に借りることだけです。そして借り物には条件があります。反省しないこと。矯正する役がいないこと。一人ではないこと。

この3つが揃った場所では、あなたは何も判断しなくてよくなります。判断しないでいられる時間のことを、私たちは休息と呼んでいるのかもしれません。

あなたが最後に、何も反省せずに閉じた本は、どれでしたか。

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