人間は上下左右、なぜ比較したくなるのか?奴隷という存在はなぜ生まれたのか?
人が人を所有したくなる本能のようなものは、あるのだろうか。私がそう考えはじめたのは、奴隷という制度が、地域も時代も違うのに、形を変えて何度も出てくるからです。この本能を言語化したい、と思いました。そしてそのすぐあとに、上下関係を好まない人間というのは何なのだろう、という問いが並んで出てきました。
世の中に流通している答えは、たいてい欲の側にあります。支配欲がある。権力欲がある。人の上に立ちたい気持ちが誰にでもある。そう言われると納得はするのですが、では自分の中のどこを見ればいいのかは分からないままでした。
この記事が扱うのは、所有と上下関係を、欲の側からではなく、その手前から見る順序です。人を所有できるようになる前に何が起きているのか。人が序列を作ってしまうのはなぜなのか。そして、いま自分がいる上下関係が耐えられる種類かどうかを、外から見分ける手がかりを一つ置きます。
順位が決まっている群れは、決まっていない群れより争わない
動物行動学のケイ・ホーレカンプとイーライ・ストラウスは、2016年に Current Opinion in Behavioral Sciences 誌で、順位制の研究を分野をまたいで整理しました。そこで示されているのは、安定した順位制が、激しい闘争と負傷を減らし、エネルギーを節約し、社会的な安定を促すという機能です。
同じ論文は、順位関係が不安定な状態そのものにコストがかかることも書いています。階層が不安定になると、内分泌の反応と、酸化ストレスの反応が起きる。決まっていないことに、体のほうが反応しています。
支配したい者が一人もいない場所でも、順位は決まっていく
私はここを逆に考えていました。序列というのは、支配したい者がいるから作られるのだと思っていました。
順序が逆です。毎回戦って決めるより、一度決めて据え置くほうが安い。だから人が序列を作るのは、上に立ちたいという気持ちより前に、決まっていないことの代金が高いからです。
これは、いまの職場でも見える形で残っています。誰が決めるのかが決まっていない会議は長くなります。同じ議題が何度も戻ってきて、そのたびに全員が発言の順番と強さを測り直す。決まっていないことの代金は、誰か一人の欲ではなく、その場にいる全員が払っています。
平等だった集団に階層が無かったのではない。下の側が上を抑えていた
文化人類学者のクリストファー・ボームは、1993年に Current Anthropology 誌で、狩猟採集社会の平等について書いています。そこで示されているのは、平等が環境の制約による受動的な結果ではないということです。下位の成員が連合して、支配的になろうとする者を意図的に制裁することで、平等は能動的に維持されていました。
制裁には幅があります。突出しようとする者の地位が上がらないようにすることから、仲間から外すこと、極端な場合は集団による排除まで。事例として挙げられているのは、アフリカ南部のクン、タンザニアのハッザ、オーストラリアのアーネムランドの先住民、北極圏の狩猟民などの社会です。ボームはこれを逆支配階層と呼びました。上が下を支配するのではなく、下が上を抑え込む向きの階層、という意味です。
ここから分かるのは、上に立ちたい気持ちと、上に立たれたくない気持ちが、同じ人間の中に両方あるということです。どちらか片方だけを持っている人はいません。
線を引いたあとでなければ、人は人を所有できない
ここが、私がいちばん大きく取り違えていた場所です。所有したいという気持ちが先にあって、その結果として人が人を持つのだと考えていました。順序が逆でした。相手を共感の対象の外に置けなければ、所有は成立しません。
社会学者のオーランド・パターソンは、1982年の『Slavery and Social Death』で、世界各地の奴隷制を比べたうえで、奴隷という状態を3つの要素で捉えました。出自から切り離されていること、名誉を奪われていること、暴力によって支配されていることです。奴隷はどの親族集団にも属さない存在として、共同体の道徳の外側に置かれる。パターソンはこれを社会的な死と呼びました。
ここまでが、研究が示していることです。ここから先は、私がそれを並べて考えたことになります。奴隷になったのは、隣の家の人ではなく、戦争の捕虜や、別の集団から連れてこられた人でした。所有したいという気持ちが強かったから、そうなったのではありません。線が先に引かれていて、線の外にいる人だけが、持てる対象になったのだと思います。
苦しいのは、上下関係があることではなく、序列が動かないことである
ここまでを、自分がいる場所に戻します。序列が装置として働いているとき、それは役割に紐づいていて、場面が変われば切れます。会議では決める人でも、現場では教わる人になる。年次が上でも、その分野では下になる。この形の上下関係に、人はあまり強く反応しません。
反応が出るのは、順位が人格に貼り付いて動かなくなったときです。これは論文が測ったことではなく、私が2つの研究を並べて考えたことです。どの場面でも同じ人が上で、どれだけ結果を出しても位置が変わらない。このとき序列は、争いを減らす装置ではなく、変えられない属性になっています。
上に立たれたくないという働きは、そこで動きます。抑え込む相手がいなくならない状態が続くと、その働きは行き場を失って、日常の細かいところに出ます。席の順番や、呼び方や、話す順番に強く反応する場面があるとしたら、そこが唯一動かせる場所に見えているからです。
抑え込む側に立ち続けると、人は必要な指示まで支配として受け取る
この見方には、正直に書いておくべき副作用があります。上に立たれたくないという働きが強く出ている場面では、必要な指示や、役割としての決定まで、支配として受け取ってしまうことがあります。決める人が決めただけの場面で、抑え込む側の反応が起きます。
そのコストは、本人だけでなく周りが払います。決めた人は、決めたことを毎回説明し直すことになり、やがて決めること自体を避けるようになる。すると、決まっていない状態の代金がまた上がります。
そのうえで、序列が動かないだけでなく、そこで実際に不利益を受けているのなら、見分けの話より先に、社内の相談窓口や外部の専門家に持っていく話になります。構造が分かることと、身を守ることは別です。
その序列が動いているかどうかは、自分の気持ちではなく、その場を見れば分かる
見分ける手がかりを一つ置きます。その場で、下の位置にいる人が、上の位置にいる人に反論できているか。できているなら、その序列は装置として働いています。順位は決まっているけれど、中身は毎回たしかめ直されています。
反論が一度も起きていないなら、順位は決まっているのではなく、固定されています。反論の中身は関係ありません。通ったかどうかも関係ありません。下の位置の人が反論を口にでき、それで関係が終わらないなら、その序列は動いています。
自分がいまいる場所で、下の位置の人が上の位置の人に反論した場面を、直近の1か月で思い出せるでしょうか。思い出せないなら、自分より上の位置にいる人に、小さな反論を一つ返してみるところから試してみてはいかがでしょうか。返ってきた反応が、その序列が動くかどうかを教えてくれます。







