10代の頃、毎日のように聴いていたアルバムがあります。歌詞も、曲順も、間奏の長さまで覚えているのに、いまはもう何年も再生していません。ふと思い出して流してみても、あの頃のようには入ってきません。
この状態を説明する言い方は、だいたい3つに集まります。歳をとって新しいものへの好奇心が落ちた、忙しくて音楽を聴く時間そのものが消えた、あるいは気分が落ちているのかもしれない。どれも、何かが失われたという形をしています。
この記事が立てる問いは違います。聴かなくなったことは、何かを失った証ではなく、何かが完了した証ではないのでしょうか。
聴かなくなった音楽は、役目を終えて静かに退場している
私はいま39歳です。最近になって、若い頃には退屈だと感じていた種類の音楽が、急に聴きやすくなりました。同じ時期に、10代でいちばん繰り返し聴いていた音楽のほうは、いつのまにか再生リストから消えています。
この2つは、別々の出来事のように見えて、順番でつながっています。先に起きたのは後者で、前者はその後にやってきました。
結論を先に書きます。音楽には、聴き手の中で果たしている役目があります。役目が終われば、その音楽は静かに退場します。退場したことは、音楽の価値が下がったことでも、聴き手が薄情になったことでもありません。では、10代に繰り返し聴いていた音楽の役目とは、何だったのでしょうか。
子ども時代の始まりを、当人は一度も認識していない
先に、少し遠回りをします。あなたの子ども時代は、いつ始まりましたか。
この問いに答えられる人は、おそらくいません。理由ははっきりしていて、子ども時代というのは、当人にとって世界の枠組みそのものだからです。枠組みの内側にいる人間は、その枠組みを対象として眺めることができません。始まったことに気づかないどころか、始まりがあったこと自体を疑問に思いません。
就職にも、結婚にも、引っ越しにも、開始の日付があります。当人はその日を認識していて、多くの場合は前後の違いも説明できます。子ども時代だけが、それを持っていません。
始まりに儀式がないものは、終わりにも儀式が用意されない
人の生活の節目には、たいてい儀式が置かれています。入学式、卒業式、結婚式、葬式。儀式の機能は感動を作ることではなく、当人と周囲に対して「ここで区切りがついた」と告げることにあります。区切りが告げられるから、人はその前後を別の時期として扱えます。
ところが、子ども時代の終わりにだけは、この装置がありません。成人式はありますが、あれは暦の上の区切りであって、当人の内側で子ども時代が終わった日とは一致しません。ほとんどの人は、終わったあとしばらく経ってから、もう終わっていたらしいと気づきます。
ここに、始まりと終わりの対応関係があります。始まりを誰も告げなかったものは、終わりも誰も告げてくれません。告げられなかった終わりは、区切りがつかないまま、当人の中に置き去りになります。
弔いの場がない終わりを、音楽が引き受けていた
区切りのつかない終わりは、放置されて自然に消えるわけではありません。人は、代わりになる装置を探します。
その代役を務めていたのが、あの時期に繰り返し聴いていた音楽だと思います。音楽は、まだ言葉になっていない喪失を、当人より先に鳴らしてくれます。歌詞が自分の状況と一致している必要すらなく、そこで鳴っている感情の形が合っていれば、それで足ります。
私がこの構造に行き着いたのは、なぜあの音楽だけを繰り返していたのかを、自分でうまく説明できなかったからです。好きだったから、では説明になりません。好きな音楽は他にもいくらでもありましたし、演奏の技術という点では、もっと分析しがいのある音楽を並行して聴いていました。あの音楽だけが、他と違う位置に置かれていたのです。いま振り返ると、その位置は聴取の対象というより、儀式の場に近いものでした。
子どもの名を背負ったまま、子ども時代の終わりを歌い続けたバンドがある
具体例をひとつ挙げます。Mr.Children は1992年5月10日に、ミニアルバム『EVERYTHING』でメジャーデビューしました。発売元はトイズファクトリーです。
このバンド名には、大人への敬称である Mr. と、子どもを指す Children が同居しています。名前の由来については本人たちの説明や関係者の証言がいくつか伝わっていますが、ここで重要なのは命名の意図ではありません。名前がそう読めるという事実のほうです。大人の敬称を付けたまま、子どもという語を手放していない。その形のまま、彼らは大人になりきれない自分を歌い続けました。
ここからは私の解釈です。学説でもなければ、バンド側がそう意図したという話でもありません。聴き手の側から見ると、この種の音楽は、終わりつつある時期に寄り添う伴走者ではなく、その時期を弔う側に立っていました。だから聴いているあいだ、こちらは慰められているのではなく、少しずつ見送っていたのだと思います。
若い時期に聴いた曲だけが特別に残ることは、研究でも扱われてきた
ここで一点、事実と解釈を分けておきます。若い時期に聴いた音楽が特別な位置を占めること自体は、消費者行動と音楽心理学の分野で繰り返し検討されてきたテーマです。
モリス・ホルブルックとロバート・シンドラーが1989年に Journal of Consumer Research 16巻119ページから124ページで発表した研究では、人の音楽的な好みが、およそ23.5歳の頃に流行していた曲でピークを迎えるという結果が示されました。一方、ラインハルト・コピエツらが2021年に Music & Science 4巻で行った追試では、平均59.1歳の162名を対象にした結果、ピークは14.16歳と算出され、元の23.47歳という値は支持されていません。またキャロル・クラムハンスルとジャスティン・ザプニックが2013年に Psychological Science 24巻10号2057ページから2068ページで発表した研究では、若年成人が自分の世代だけでなく、親世代の曲についても記憶と選好の山を示すことが報告されています。
これらの研究が一致しているのは、人生の早い時期に聴いた曲が、あとの人生を通じて特別な位置を持ちやすいという点までです。ピークが何歳かについては割れていますし、それが弔いのためだったという説明は、どの研究にも書かれていません。そこから先は、この記事の解釈です。
弔いが済んだという説明のコストを、正直に書いておく
自説の弱いところを書きます。弔いが済んだという説明は、都合よく使えてしまいます。ただ惰性で離れただけのものも、飽きて放り出したものも、あとから完了という名前を貼れば体裁が整ってしまう。名前を与えた瞬間に、人はそれを確かめなくて済むようになります。
もうひとつ、こちらのほうが重い問題です。済んだと言い切ることは、まだ済んでいない人を急かすことになります。40代でも50代でも、あの音楽が必要なままの人はいますし、必要であることは遅れていることではありません。弔いの長さは、失ったものの大きさに比例します。長くかかっているなら、それだけ大きなものがそこにあったというだけの話です。
何を聴いても心が動かないなら、それは弔いの話ではない
もうひとつ、切り分けておきたいことがあります。この記事が扱っているのは、特定の音楽だけが離れていったケースです。他の音楽は変わらず楽しめるのに、あの時期の音楽だけが入ってこない。その偏りがあるときにだけ、ここまでの説明は当てはまります。
何を聴いても心が動かない、以前は楽しめたことが全般に楽しめない。そうした状態が続いているなら、それは別の構造です。この記事の話ではなく、休養や、専門家に相談することを検討する段階かもしれません。
弔いが済んだ耳には、対峙してこない音楽が入ってくる
弔いのあいだ、音楽は聴き手に対峙してきます。歌詞が当人の内側を名指しし、聴き手はそれと向き合うことになります。向き合う作業なので、聴くこと自体に一定の負荷がかかりますが、その時期にはその負荷こそが必要でした。
弔いが済むと、向き合うべき相手がいなくなります。名指しされても、そこにはもう名指しされる対象が残っていません。
空いた場所に入ってくるのが、何も要求してこない音楽です。声が前にあって、演奏が最初から最後まで整っていて、聴き手に問いを投げてこない。私が39歳になって、若い頃には退屈だと感じていた音楽を聴きやすいと思うようになったのは、これだと考えています。あの音楽が退屈だったのではなく、当時の自分には、対峙してくる音楽のほうが先に必要だった。順番があっただけです。
判断基準は、その曲を流したときに、次の曲まで聴きたくなるかどうかである
自分がいまどこにいるかは、簡単に確かめられます。昔いちばん聴いていた曲を、1曲だけ流してみてください。
最後まで聴けて、そのまま次の曲も聴きたくなるなら、弔いはまだ途中です。その音楽は、いまも仕事をしています。無理に卒業する必要はありません。
懐かしいとは感じるけれど、次を再生する気にならないなら、弔いは済んでいます。手放したのではなく、受け取り終えたということです。
途中で止めたくなる、あるいは流す前から気が進まないなら、3つ目のケースになります。済んでいないどころか、まだ手をつけられていません。この場合に必要なのは距離を取ることではなく、時期が来るのを待つことだと思います。
Q:昔好きだった音楽を聴かなくなったのは、自分が薄情になったということでしょうか。
A:そうではないと考えています。ある時期の音楽は、区切りの儀式がないまま終わっていく子ども時代を、聴き手の代わりに見送る役目を負っていることがあります。その役目が終われば、音楽は再生されなくなります。聴かなくなったことは離れたことではなく、その音楽が引き受けていた仕事が完了したという合図です。
まとめ:あの音楽は死者ではなく、喪主だった
昔いちばん聴いていた音楽を聴かなくなるのは、心変わりでも、感受性の摩耗でもありません。子ども時代は、当人が始まりを認識しないまま始まるので、終わりにも儀式が用意されません。誰も告げてくれない終わりを、当人の代わりに告げていたのが、あの時期の音楽でした。
若い時期の曲が特別な位置を持つことは研究でも扱われてきましたが、それが弔いの機能を担っていたという説明までは、研究の範囲を超えます。そこは私の解釈として置いておきます。確かなのは、あの音楽が退場したあとに、対峙してこない音楽が入ってくる余地ができたということです。
もう聴かないのは、弔いが済んだからです。あの音楽は死者ではなく、喪主でした。
再生リストから消えたまま、少し後ろめたく思っている曲が、もしあるなら。一度だけ流してみて、次の曲まで聴きたくなるかどうかを確かめてみてはいかがでしょうか。答えがどちらでも、それはあなたが薄情になったかどうかとは、何の関係もありません。





