刺激がないと生きていけないのは、正常です。分かれるのは、その刺激を自分で作れるかどうかです。
しかし、刺激を求めること自体をやめたほうがいい、という話もよく聞きます。求めるのをやめれば、それで済むのではないでしょうか。
やめられません。退屈が続けば、人は酒でも勉強でも、何かでそこを埋めます。だからここでは、求める先のほうを2つに分けて見ます。
刺激を2つに分ける。刹那的刺激と探究的刺激
求める先を見ると、刺激は2つに分かれます。こちらが何もしなくても向こうから来て、その場で終わるものが刹那的刺激で、自分で作らないと出てこないものが探究的刺激です。
パチンコの台に座れば玉は勝手に出ますし、酒は口に入れれば効きます。こちらが用意するのは、金と時間だけです。
一方、同じ史跡の前に立っても、何も知らなければただの石です。何が建っていて、誰が壊して、なぜここだけ残ったのか。それを自分で作れる人だけが、そこから刺激を取り出せます。美術館も、街歩きも、本も同じです。
探究する力があるほど、はまり先が広がる
石が石のまま終わるかどうかは、探究する力があるかどうかで決まります。そしてこの力がある人は、どこでも作れます。力そのものが対象を選ばないからです。
本でも、街歩きでも、楽器でも、仕事でも成立するので、はまり先がどんどん広がります。教養が何の役に立つのか、という言い方がありますが、役に立つのはこの力のことです。
力がない側では、逆のことが起きます。効くものが他にないので、同じものを繰り返すことになります。パチンコと酒と夜遊びを行き来して、また戻ってくる。金と時間を使っているのに、選んでいるわけではありません。
短い時間しかないから手軽なものに行く、という説明を見かけます。しかし同じ10分で漫画も本も読めるので、時間の長さは理由になりません。自分で作らなくても効くものが、それしか残っていないからです。
刹那的刺激は、同じ量では足りなくなる
狭いところを繰り返していると、もう1つの性質が出てきます。刹那的刺激は、繰り返すと同じ量では足りなくなります。
ギャンブル障害の診断基準は、その第1項目がこれにあたります。国立病院機構久里浜医療センターの解説に載っている条文は、「興奮を得たいがために、掛け金の額を増やして賭博をする要求」です。同センターは症状のほうにも、同じ興奮をえるために掛け金の額を増やしてギャンブルをする、と書いています。
足りなくなると、量を増やすか、より強いものへ移ります。効くものが少ない人ほど、移る先が上へ上へと積み上がっていきます。
探究的刺激も足りなくなる。ただし、探究する力が残る
足りなくなること自体は、探究的刺激の側でも起きます。一度取り出したものからは、次に同じ満足は来ません。ここまでは刹那的刺激と同じ形です。
違うのは、次に向かうときに残っているものです。同じ史跡にもう一度立てば、前より多くを取り出せます。掛け金を上げた先には何も残らないので、次に座るときは、また同じところから始まります。
だから、教養がない人生のほうが維持費が高い、という話はそのとおりになります。探究する力がないと効くものが減っていき、減った分を金額で埋めることになるからです。
いま自分が何にはまっているかを一度書き出して、それが向こうから来たものか、自分で作ったものかを見てみてはいかがでしょうか。







