ベテランの勘は、本人に聞いても出てこない。だから、落とした案のほうを並べる

あの人にしかできない仕事がある。その人が異動する、あるいは辞める。引き継ぎのために「どうやって判断しているんですか」と聞く。返ってくるのは「経験ですかね」「見れば分かるんですよ」。

対処として挙がるのは、だいたい3つです。時間をかけて口頭で説明してもらう。マニュアルを書いてもらう。隣について仕事を見せてもらう。ある調査では、引き継ぎの手法として「口頭での説明」と「既存マニュアル共有」がどちらも53.5%で並び、最も多く使われていました。同じ調査で、引き継ぎの課題の1位は「暗黙知が共有されず」の39.5%です。最もよく使われている手段と、最も多い不満が、正面から噛み合っていません。

この記事が立てる問いは違います。本人が言葉にできないものを、本人以外の場所から取り出せないでしょうか。

目次

ベテランが勘所を言えないのは、隠しているからではない

聞いて出てこないと、こちらはつい、惜しんでいるのではないかと疑います。あるいは、説明が下手なのだろうと片付けます。

どちらでもない可能性があります。本人も知らない、という可能性です。

先ほどの調査には、管理職の声としてこういうものが載っていました。ベテランに勘所を文書化してほしいと頼んでも、本人も言葉にできないと言われてしまう、と。これは引き継ぎが失敗した記録ではありません。正しく実行した結果、行き止まりに突き当たった記録です。

ここからは私の解釈です。実証された機序ではありませんので、そのつもりで読んでください。長く同じ判断を繰り返していると、判断が言葉を経由しなくなります。最初は「こういう場合はこう」と考えていたものが、やがて見た瞬間に答えが出る状態に変わる。このとき、途中の言葉は消えています。消えたものを思い出してくださいと頼んでも、思い出す先がありません。

だから、聞き方を工夫しても限界があります。丁寧に聞いても、時間をかけて聞いても、本人の中に無いものは出てきません。

選ばれたものだけを並べても、境界線は引けない

ここで具体的な作業の話をします。

ある企業が、社内向けの短い動画を毎週配信していました。視聴した社員が感想を投稿し、その中から2本を選んで次回の動画で紹介する。感想は週に100件を超えます。選ぶ担当者は一人で、基準は明文化されていません。

この選定を機械に移すことになりました。当然、最初にやるのは基準の確認です。ところが本人からは、良いと思ったものを選んでいる、以上の説明は出てきませんでした。

そこで、過去に選ばれた分を見ることにしました。ある週は111件の投稿があり、そのうち採用されたものに印が付いています。この印が付いた側だけを並べて、共通点を探しました。

出てきません。どれも真面目に書かれていて、どれも会社の理念に触れていて、どれも前向きです。共通しているのは「良い」ということだけで、それは説明になっていません。

境界線というのは、片側だけを見ても引けないものです。合格者の答案を100枚眺めても、合格点がどこにあるかは分かりません。不合格の答案と並べて、初めて線が見えます。

そこで、印の付かなかった92件のほうを持ってきました。これを落選の記録と呼ぶことにします。選ばれたものと、選ばれなかったもの。この二つを対にして初めて、境界線が姿を現します。

落選の記録は、たいてい捨てられています。誰も保存しません。しかし基準を復元するとき、情報を持っているのはむしろこちら側です。

最初に見つかった基準は、たいてい間違っている

対にして眺めると、すぐに一つの傾向が出ました。選ばれたものは、全部が長い。最も短いもので262字あり、それより短い投稿は一件も選ばれていませんでした。

きれいな線に見えました。262字。これで機械に判定させれば、111件が30件ほどに絞れます。

この基準は間違っていました。

見ていたのが直近1週間分だけだったからです。範囲を過去2か月に広げると、投稿は1,641件、印が付いたものは135件になりました。この135件のうち19件が、230字に満たない投稿でした。最も短いものは83字です。1週間分から立てた線は、14%を取りこぼす線でした。

さらに悪いことが分かりました。逆向きにも成立していなかったのです。400字を超える投稿は125件あり、そのうち印が付いたのは60件でした。48%です。長さは、選ばれる理由になっていませんでした。

なぜ1週間分では完璧な線に見えたのか。単純に、その週はたまたま短い良作が無かったからです。範囲が狭いと、無関係な変数が完璧な相関に見えます。手元のデータで例外がゼロだったことは、例外が存在しないことの証拠にはなりません。

これは基準の復元に限った話ではありません。3回続けて当たった手法、直近半年だけ好調な指標、今年の担当分だけで見た傾向。範囲を広げないうちは、それが法則なのか、その範囲の性質なのかを区別できません。

結局、長さは足切りにしか使えないと分かりました。150字で切ると週85件が残り、印の付いたものの94%を拾えます。それ以上絞ると、取りこぼしが増えていきます。長さは、候補を減らす道具ではあっても、選ぶ道具ではありませんでした。

同じ言葉で呼ばれていた基準が、二つに割れた

このシートには、印を付ける欄が二つありました。社内の担当者が付ける欄と、社外の監修者が付ける欄です。どちらの欄も「良い」という意味で使われていました。

2か月分を数えると、社内の担当者は99件に、社外の監修者は93件に印を付けていました。ほぼ同数です。

重なっていたのは57件でした。それぞれ40件前後を、単独で拾っていたことになります。

同じ「良い」という言葉が、二つの別々の基準を指していました。

単独で拾われたものを並べると、性質がはっきり分かれます。社内の担当者だけが拾ったものは、平均464字と長く、業界の変化や組織の課題といった、次の議論の種になる内容が中心でした。社外の監修者だけが拾ったものは、平均358字と短く、失敗の告白や、感情が動いた瞬間を書いたものが目立ちました。

一人は、これは論点になるか、と見ていた。もう一人は、これは人の心を動かすか、と見ていた。

二人とも、自分の基準を説明したことはありません。同じ欄に同じ言葉を書いていたので、同じものを見ているつもりだったはずです。落選の記録と突き合わせなければ、この分岐は永久に見えませんでした。

引き継ぎの現場では、これが厄介な形で現れます。二人から教わると、教えの内容が食い違う。どちらかが間違っていると考えて、片方を切り捨ててしまう。実際には、二つの基準が両方とも必要だったということが起こります。

本人が誇っている基準と、実際に使っている基準は違う

復元された基準の中身に入ります。

選ばれたものに共通していたのは、長さでも、語彙でも、熱意でもありませんでした。その人が実際に見聞きしたことが書かれているかどうか、でした。

顧客が実際に口にした言葉が引用されている。自分がやっている作業の手順が具体的に書かれている。他社の担当者を見て気づいた事実が書かれている。ここ数年で現場の空気がどう変わったかが書かれている。こうした投稿が選ばれ、動画の内容を要約しただけの投稿は、どれだけ長くても落ちていました。

ここまでは、本人に聞けば出てきたかもしれません。実感がこもっているものを選んでいる、という説明はできたでしょう。

問題は、最終的に2本まで絞られたものの傾向でした。過去11回分の完成品を調べると、ほぼ毎回、2本のうち1本が同じ性質を持っていました。

自分の弱さや、うまくいっていない現状が書かれているのです。

いま2か月間、成績が振るわない自分にとって痛いほど刺さった。数字に囚われて自分に圧力をかけすぎていた。まだ契約には至っていないが、あのとき挑戦したから得られたものがある。こうした一文を含む投稿が、繰り返し最終選考に残っていました。

きれいにまとまった優等生の感想文は、印は付いても、最後の2本には残りません。痛みや、途中であることを隠さずに書いたものが残ります。

この基準を、本人が言えたでしょうか。おそらく言えません。自分が痛みに反応して選んでいる、と自覚している人は少ないからです。仮に自覚していたとしても、業務の基準として口に出すのはためらわれる種類の内容です。

本人が誇っている基準と、実際に使っている基準は、しばしば違います。前者は聞けば出てきますが、後者は履歴の中にしかありません。

Q:本人に自覚のない基準を勝手に取り出すのは、失礼ではないでしょうか。

A:取り出したものを本人に見せて、合っているかを確認する工程を入れるなら、問題は起きにくいと考えられます。実際にこの作業でも、復元した基準を本人に提示したところ、痛みを選んでいるという指摘は本人にとっても発見でした。勝手に決めつけて運用を始めるのではなく、仮説として見せることが前提になります。

基準を言葉にしても、判断は一致しない

ここは正直に書いておきます。

基準を復元し、文章にまとめ、その基準に沿って111件から2本を選ばせました。そして、同じ週に人間が実際に選んでいた2本と突き合わせました。

一致しませんでした。

人間が選んだ2本は、こちらが付けた印19件の中には入っていました。しかし最後の2本としては、別のものが上に来ていました。

理由は分かります。人間が選んだ2本は、どちらも具体的な出来事ではなく、動画を見て自分に問い直した内容でした。こちらが重く見た、検証できる固有の事実という条件では、下に沈む種類のものです。

ではどちらが正しかったのか。判定できません。その週の視聴者がどちらに反応したかを測る手段がないからです。復元した基準が浅かったのかもしれませんし、その週はたまたま候補が拮抗していただけかもしれません。

言えるのは一つです。基準を言語化しても、その基準を適用する段階で判断は割れます。言語化は、判断を再現するところまでは到達しませんでした。

判断基準は、不一致が残る場所にある

この結果は失敗ではありません。むしろ、引き継ぎで本当に知りたかったことを教えてくれています。

一致した部分と、一致しなかった部分を分けて見てください。

一致した部分は、言葉にできた部分です。この作業では、111件から19件に絞るところまでは、ほぼ同じ結果になりました。ここは渡せます。渡してよい、というより、渡したほうがいい部分です。手数が多く、疲れる工程で、しかも属人的である必要がありません。

一致しなかった部分は、19件から2件に絞るところでした。ここが、その人にしかできない仕事です。

引き継ぎの計画を立てるとき、私たちはつい全部を渡そうとします。全部渡せないと失敗だと感じます。しかし全部渡せる仕事は、そもそもその人でなくてもよかった仕事です。渡せない部分が残ったということは、その人が本当に価値を出していた場所が特定できたということでもあります。

判断基準は、こう置けます。落選の記録と突き合わせて言語化できた部分は、外に出す。言語化しても判断が割れる部分は、残す。そして残った部分にこそ、その人の時間を集中させる。

引き継ぎの目的を、全部を移すことから、移せないものを見つけることに置き換える。そうすると、この作業は失敗しなくなります。

明日から始められること

必要なのは、特別な道具ではありません。過去の選択の記録です。

選ばれたものは、たいてい残っています。採用した企画書、通した稟議、掲載した記事。問題は、選ばれなかったもののほうです。落とした案、見送った候補、不採用にした応募書類。これらは記録として残っていないことが多く、残っていても半年で捨てられます。

もし、いま誰かの判断を引き継ぐ予定があるなら、まずその人の落選の記録を集めてみてはいかがでしょうか。そして選ばれたものと対にして並べる。それだけで、本人に何時間ヒアリングしても出てこなかった線が見えてくることがあります。

範囲は広く取ってください。1週間分では、たまたま成立している相関が法則に見えます。数か月分あって初めて、例外が姿を現します。

そして、線が引けたあとに残る不一致を消そうとしないでください。そこが、その人が本当にやっていた仕事です。

あなたの職場で捨てられている落選の記録は、どこにありますか。

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