なぜ私たちは休むことに罪悪感を覚えるのか?「自己責任」と「世間の目」という二つの規範

私たちが休むことに罪悪感を覚えるのは、休むと世間の人から仲間と見なされなくなることと、自分の責任で仕事が遅れることを、同時に恐れるからです。

しかし、罪悪感は自分の心の弱さから来る、と感じる人もいるでしょう。周りの目を求める規範と個人の成果を求める規範が重なると、休むこと自体が二つの規範に反する行いに見えて、罪悪感が生まれます。

この記事は、世間の規範、自己責任の規範、その二つが重なったときに起きること、ヴェーバーが書いたカルヴァン派の不安との共通点、罪悪感への向き合い方を、順に述べます。

目次

世間の規範は、周りの目を気にして全体の調和を守るよう、人に求める

世間の規範とは、周りの人の目を気にして、和を乱さず全体のために働くよう、人に求める決まりです。「お天道様が見ている」という言い方や、滅私奉公という言葉に、その形が表れています。

歴史学者の阿部謹也は、1995年の『「世間」とは何か』で、世間を日本人の生活を長く形づくってきた枠組みとして論じました。世間の中では、自分だけが休むと周りに迷惑がかかる、と感じやすくなります。

自己責任の規範は、成果も失敗も、本人の責任にする

自己責任の規範とは、個人として成果を出し、競争に勝つよう、人に求める決まりです。問われるのは全体の調和よりも、一人ひとりの成果です。

成果が出ないと、本人の責任とされます。調和を求めていたはずの共同体からも、距離を置かれることがあります。

二つの規範が重なった人には、休むことが規範に反する行いに見える

世間の規範と自己責任の規範は、求めるものが食い違います。一方は個を抑えて全体に合わせることを、もう一方は個として競争に勝つことを求めるため、両方を守ろうとする人は休まず働き続けるしかなくなります。

世間から外れることも、競争で脱落することも避けたい人は、心身の限界を超えても働き続けます。休むことが二つの規範から外れる行為に見えるので、強い罪悪感が生まれます。

年次有給休暇の取得をためらう理由として、周囲に迷惑がかかることが挙がる点は、労働政策研究・研修機構の2011年の調査報告にも示されています。

カルヴァン派の不安と、休めない人の不安は同じ型をしている

ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、カルヴァン派の信者が、自分は神に救われているのかという不安から、職業に休まず励んだと論じました。救われているかどうかが分からない人は、自分が選ばれている確かな印を求めて働き続けた、という構図です。

カルヴァン派は、誰が救われるかは神があらかじめ決めていて、人には分からないと教えました。信者は、職業での成功を、自分が選ばれていることの印として求めました。

現代の働き手も、世間に認められているか、競争で脱落していないかが分からないので、認められている印を求めて働き続けます。不安から確証を求めて働くという型が同じです。

ただし、カルヴァン派と現代の働き手が似ているという指摘は、類推です。現代の日本社会にそのまま当てはまることを確かめた研究は、確認できていません。

罪悪感がどこから来るのかを分けて考える

罪悪感が自分に対する自分の評価に見えても、罪悪感の出どころは、世間の目と自己責任という、他人や社会が決めた規範にあります。罪悪感を感じたときは、世間の基準と自分の価値観や心身の健康を、分けて考えることができます。

まず、罪悪感が世間の目から来ているのか、成果への責任から来ているのかを見分けてください。次に、世間や自己責任の基準で休めないと感じている場面で、自分が大切にしたい価値観と体調を、基準とは別に書き出します。

眠れない日や気分の落ち込みが続くときは、医師や職場の相談窓口が相談先になります。

次に休むことをためらったときは、罪悪感が世間の目と自己責任のどちらから来ているかを、一度書き出してみてはいかがでしょうか。

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