例えば、今日も長かった。そう思いながら布団に入る日が、しばらく続いています。それなのにカレンダーを見ると、もう年の後半に入っている。
よく言われる答えは、だいたい2つです。歳をとったから時間が早く感じるというものと、毎日が同じだから新しいことを始めたほうがいいというものです。どちらも一度は聞いたことがあると思います。
この記事が立てる問いは、少し違います。1日が長いことと、1年が早いこと。この2つは、本当に別々の出来事なのでしょうか。
1日が長いことと1年が早いことは、別々の現象ではない
結論から書きますが、この2つは同じ1つの原因から出ています。
その原因は、昨日と今日を区別できないことです。区別する材料がないと、その日を過ごしている最中は、時間が引き伸ばされます。そして同じ理由で、あとから振り返るための材料も残りません。
1日が長いのも1年が早いのも、材料が乏しいからです。矛盾しているように見えますが、同じことが2回、別の向きに起きているだけです。
忙しさが足りないわけでも、年齢のせいでもありません。時間の感じ方は、進行中と振り返りとで、逆の向きに動くようにできています。
進行中に感じる時間と、あとから思い出す時間は、別の仕組みで測られている
心理学では、時間の判断を2種類に分けます。いま流れている時間についての判断と、過ぎ去った時間についての判断です。
前者は、その時間にどれだけ注意を向けたかで決まり、時計を気にするほど時間は長くなります。授業や会議が長く感じるのは、内容のせいではなく、残り時間を何度も確認するからです。
後者は、その期間に記憶がどれだけ残ったかで決まり、思い出せることが多いほど長かったと判断されます。
イギリスの心理学者クラウディア・ハモンドは、2012年の著書『Time Warped』でこれを休日のパラドックスと呼びました。旅行の最中はあっという間なのに、帰ってから振り返ると長く感じる。中身が濃いと、進行中は速く、記憶では長くなるという現象です。
この関係は、そのまま裏返せます。中身が薄いと、進行中は遅く、記憶では短くなる。1日は長いのに1年は早いという感覚は、その裏返しの側にいるということです。
退屈は、その日を長くしながら、同時にその1年を短くする
この見立てを支える研究があります。
ナタリア・マルティネッリとシルヴィ・ドロワ=ヴォレは、2022年12月に時間の感じ方の予測因子を調べた論文を発表しました(Scientific Reports 第12巻、論文番号22241)。参加者に画像を一定時間見せ、時間がどう流れたと感じたかを答えてもらう実験です。
結果として、時間の流れ方の感覚を最もよく説明した要因は、時間の長短にかかわらず、退屈という感情でした。さらに1分を超える長さになると、注意に関わる要因が効かなくなり、時間の長さそのものの判断まで感情が支配していました。
ここで一点、事実と解釈を分けておきます。この研究が測ったのは数十秒から3分程度であり、1日や1年ではありません。日単位の体感に同じことが起きているかは、この研究だけでは言えません。
ただし退屈が最大の予測因子だったという事実は、1つのことを示しています。退屈は時間感覚のおまけではなく、時間感覚を作る側の材料だということです。
時計のない場所に置かれた人は、日付そのものを取り違える
区別する材料を完全に取り去ると、何が起きるのでしょうか。それを自分の身体で確かめた人がいます。
フランスの地質学者ミシェル・シフルは、1962年7月から、時計も日光もカレンダーもないアルプスの地下130メートルで、62日から63日を過ごしました。1972年にはテキサスの洞窟で6か月を過ごし、時間の手がかりがない環境では、身体が24時間ではなく48時間の周期に移っていたと報告しています。
1999年11月から2000年2月にかけての滞在では、地下で新年を祝いましたが、実際の日付とは3日ずれていました。シフルは2024年8月に、85歳で亡くなっています。
刻み目のない場所に置かれると、人の身体は、まず時間の刻み方そのものを変えます。そして本人の見積もりは、実際の日付から静かに離れていきます。
記憶を消されるなら、その5億年は誰が過ごしたことになるのか
ここで、極端な例を1つ挟みます。
菅原そうたが2001年に発表した短編漫画に、5億年ボタンというものが出てきます。『週刊少年ジャンプ』の増刊「GAG Special 2002」に「BUTTON A PART TIME JOB」の題で掲載され、単行本『みんなのトニオちゃん』に収められた際に「アルバイト(BUTTON)」へ改題された作品です。ボタンを押すと報酬がもらえますが、押した人の意識は何もない空間へ送られ、そこで5億年を過ごすことになります。そして戻るとき、その記憶はすべて消されます。
ジャネーの法則を当てはめれば、5億年は圧縮されそうに思えます。体感時間が年齢の逆数に比例するなら、主観的な総量は実年数の対数に近づくからです。20歳を基準にして計算すると、5億年の主観的な総量は、人生の6倍から7倍程度に収まります。
ここからは私の解釈です。学説として確立された議論ではありませんので、そのつもりで読んでください。
この計算は、たぶん成立しません。ジャネーの法則が働くのは新しい体験が減って記憶の密度が下がるからですが、何もない空間では、密度が下がる以前に刻み目そのものが存在しないからです。刻み目がない場所で時間がどうなるかは前の節で見たとおりで、縮むのではなく伸びます。
そして伸びきったあとに、記憶は消されます。5億年分の何かが起きたのに、痕跡はゼロです。ではそれは、誰が過ごした5億年だったのでしょうか。この問いに答えられないところが、この作品のいちばん静かな怖さだと思います。
ちなみに5億年という長さは、動物が目や複雑な神経系を獲得してから現在までの時間と、ほぼ重なります。カンブリア紀が始まったのは、5億3880万年前です。
新しいことを始めよう、という答えが効かない時期がある
話を、自分の毎日に戻します。
体感時間を取り戻す方法として、たいてい同じ答えが出てきます。新しいことを始める、いつもと違う道を通る、知らない分野の本を読む、旅行に行く。どれも正しく、実際に効きます。
問題は、それができない時期があることです。介護をしている、療養している、小さい子どもがいる、決まった業務を毎日回している。こういう時期の人にとって、新しいことを始めようという助言は、できない理由を1つ増やすだけになります。
ここで、前の節の話が効いてきます。時間の感じ方を決めていたのは、体験が新しいかどうかではなく、あとから思い出せる材料が残ったかどうかでした。
新しさは、材料を残すための手段の1つにすぎません。その手段が使えないなら、別の手段を探せばいいだけです。
増やすべきなのは、新しい体験ではなく、昨日と違うと言えることである
必要なのは、その日を他の日と区別できる何かで、1日に1つあれば足ります。
昼に食べたものでも、誰かが言った一言でも、窓から見えた空の色でもかまいません。条件は1つだけで、昨日と同じ枠に入らないことです。同じ弁当を食べた日が2日続いたら、それは区別する材料になりません。
大事なのは量ではなく、区別です。新しい体験を10個並べるより、昨日と違うと言い切れる1つのほうが、あとまで残ります。
Q:新しいことを始める余裕がないとき、体感時間はあきらめるしかないのでしょうか。
A:あきらめる必要はありません。時間の感じ方を決めているのは、体験の新しさではなく、あとから思い出せる材料があるかどうかです。1日に1つ、昨日と違うと言えることがあれば、その日は記憶の中で他の日と区別されます。旅行や転職のような大きな変化がなくても、材料は作れます。
この方法のコストを、正直に書いておく
公平を期すために、逆の側も書きます。
この方法には副作用があります。毎日を区別しようとすると、その日を採点する目線が生まれ、今日は何も無かったと数えてしまう日が必ず出てきます。
そして、区別すること自体が義務になると疲れます。日記が続かない理由の多くは書く手間ではなく、書くに値する1日だったかを毎晩判定させられるところにあります。
だから記録の形式は問いませんし、書かなくてもかまいません。寝る前に、今日はこれがあった、と1つ思い出せれば、それで足ります。
もう1つ書いておきます。何をしても時間が動かない感じが2週間以上続いているなら、それはこの記事の話ではありません。医療の領域なので、専門家に相談することを検討してみてください。
判断基準は、その日を一言で言えるかどうか
自分に当てはめられる基準を、1つ渡します。
寝る前に、今日を一言で言ってみてください。言えたならその日は記憶の中に残り、言えなかったなら、その日は1年を振り返るときに消えます。
これは記憶力の話ではなく、今日という日に、他の日と違う点があったかどうかの話です。言えない日が続いたら、明日の予定に1つだけ、昨日と違うものを入れてみる。その1つは、どれだけ小さくてもかまいません。
1日が長く感じること自体は、悪いことではありません。長く感じているということは、時間がまだ自分のものだという証拠でもあります。困るのは、その長い1日が、1年後に1つも残っていないことのほうです。
今日を一言で言うとしたら、あなたは何と言いますか。







