大人になると感動しなくなるのは、感受性が鈍ったからではなく、その本が効く時期を過ぎたからである

昔、夢中で読んだ本があります。何度も開いて、線を引いて、これは自分のために書かれたと思った一冊です。その本を、いま読み返してみる。文章は同じですし、展開も覚えています。それなのに、何も起きません。

よく言われる答えは、だいたい三つです。忙しくて集中が続かない。刺激に慣れて感覚が鈍った。仕事で心をすり減らして、他人に共感する力が減った。どれも、感じる力が落ちたという説明になっています。

この記事が立てる問いは違います。落ちたのは、本当に感じる力なのでしょうか。

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感じなくなった原因を、自分の鈍さに求めなくていい

昔の感動が戻らないとき、私たちはその原因を自分の内側に探します。鈍くなった。すり減った。何かを失った。世の中に出回っている説明も、ほとんどが同じ方向を向いています。

その説明が当たっている場合は、確かにあります。強い刺激に晒され続ければ弱い刺激への反応は落ちますし、時間がなければ、じっくり読む姿勢そのものが作れません。ここは疑う必要のないところです。

ただし、すべてがそれで説明できるわけではありません。感じる力は落ちていないのに、特定の作品だけが効かなくなる、ということが起こります。そしてその場合、原因は読み手の側ではなく、作品と読み手の関係の側にあります。

あの本が効いたとき、自分は同じ苦しさの中にいた

ある作品が刺さるとき、そこには条件があります。書かれている苦しさと、読んでいる自分の苦しさが、同じ形をしているという条件です。

その一致があるとき、読書は理解ではなく発見になります。自分の中にあったのに言葉にできなかったものが、他人の文章の中に正確な形で置かれている。だから「これは自分のことだ」と感じます。線を引くのは、納得したからではなく、見つけられたからです。

条件が外れると、同じ文章は情報に戻ります。内容は理解できますし、うまいとも思います。ただ、自分の中に対応する場所がないので、どこにも引っかかりません。読めなくなったのではなく、引っかかる先がなくなった状態です。

若い頃の自意識は、世界が自分を拒んでいるように見せる

条件が最もそろいやすいのは、十代から二十代前半です。ここには、発達心理学が古くから記述してきた特徴があります。

心理学者のデイヴィッド・エルキンドは、1967年に発表した論文(Child Development誌)で、青年期に特有の自己中心性を二つの概念で説明しました。一つは「想像上の観客」で、周囲が自分の外見や振る舞いに、自分と同じくらい注目していると信じてしまう状態です。もう一つは「個人的寓話」で、自分の感情は誰にも理解されない特別なものだと信じる状態を指します。

この二つが同時に働くと、世界の見え方が変わります。常に誰かに見られていて、しかもその誰にも自分は理解されていない。自意識と孤立感が、同じ一つの構造から出てきます。多くの人が、この時期に世界から拒まれているような感覚を持ちます。

そして、その感覚を正確に書いた作品が、この時期に強く効きます。効いているのは文章の質だけではありません。読み手の状態のほうが、受け取る準備を整えています。

三島由紀夫の小説は、読む人を選ぶように書かれている

分かりやすい例が、三島由紀夫です。1925年に生まれ、1970年に自ら命を絶った作家で、その最期が作品の読まれ方に影響を与え続けています。

代表作の『金閣寺』は1956年に刊行されました。下敷きになっているのは、1950年7月2日に実際に起きた放火事件です。主人公の溝口は、吃音を抱えた若い僧で、金閣の美しさに取り憑かれ、最後にそれを焼きます。

ここでよく誤解されるのが、動機の構造です。手に入らないから壊した、という独占欲の話ではありません。溝口にとって金閣は、完璧であるがゆえに自分の卑小さを照らし返してくる存在です。金閣が美しくあり続ける限り、自分は永遠に救われない。だから焼く。所有できないから壊すのではなく、それが在る限り自分が在れない、という論理です。

この論理は、読んで理解することはできます。ただ、身体の感覚として納得できるかどうかは、別の話です。外にある価値が、自動的に自分の存在の否定に変換される。この回路が繋がっている人にだけ、溝口の破壊は必然に見えます。繋がっていなければ、どこかで飛躍が起きたようにしか読めません。

1949年の『仮面の告白』も同じ構造を持っています。語り手は、社会が期待する「普通の男」を演じている自分を、観察者のように記録していきます。演じている自分と、それを見ている自分の二重構造です。この分裂を実際に生きている読者には、精密な自己分析として届きます。そうでない読者には、他人の症例報告として届きます。

なお、いまその苦しさの中にいて、こうした作品が自分のことだとしか思えない状態が続いているなら、それはこの記事の話ではありません。読書の問題として扱わず、信頼できる人や専門家に話してみることを検討してみてください。

年を重ねると、痛い話そのものへの反応が変わる

条件が外れるのは、悩みが消えるからだけではありません。年齢そのものが、情報の受け取り方を変えていきます。

心理学者のマーラ・メイザーとローラ・カーステンセンは、2005年にTrends in Cognitive Sciences誌で、加齢に伴う「ポジティビティ効果」を報告しています。感情的な刺激を見せたあとで記憶を調べると、高齢者では若年者に比べて、肯定的な情報の占める割合が高くなる。この偏りは、感情を調整しようとする動機の強さと、それを支える認知的な制御によって生じている、という内容です。

ここで一点、事実と解釈を分けておきます。この研究が測ったのは注意と記憶であり、小説の読み方ではありません。年を取ると三島が読めなくなる、という因果が証明されているわけではありません。ここで言えるのは、負の情報への向き合い方が年齢とともに変わる、という事実だけです。

そのうえで解釈を述べます。破滅や自己否定を扱った作品は、負の情報を正面から受け取る姿勢を読者に要求します。その姿勢のコストが上がっていけば、同じ文章でも入り方が変わる。若い頃に刺さった作品が遠く見えるのは、この変化と無関係ではないだろう、と考えています。

効かなくなった作品には、二つの種類がある

ここまでを踏まえると、効かなくなった作品は二つに分かれます。

一つは、自分の苦しさを代弁していた作品です。孤立、劣等感、自己嫌悪、世界に拒まれている感覚。これらを正確に言葉にしていたから効いていました。効かなくなったのは、代弁されるべき苦しさが薄れたからです。この場合の変化は回復なので、無理に戻す必要はありません。

もう一つは、自分の外にある世界の広さを見せていた作品です。知らない土地、知らない人生、知らない考え方。これらは、読み手が苦しんでいるかどうかとは無関係に働きます。効かなくなったとすれば、それは受け取る側の余白が埋まったからです。この場合は、本当に何かが摩耗しています。

Q:昔感動した本に何も感じなくなったのは、感受性が鈍ったということですか。
A:そうとは限りません。その本が自分の苦しさを代弁するものだった場合、効かなくなったのは代弁されるべき苦しさが薄れたからで、感じる力が落ちたわけではありません。一方、世界の広さを見せてくれる種類の本まで一様に響かなくなっているなら、そちらは受け取る余白の問題として考える価値があります。

戻したほうがいい感動も、たしかにある

公平を期すために、逆側も書きます。何も感じなくなったことを、すべて「通り過ぎた」で片付けるのは危険です。

実際に摩耗は起こります。判断の速さを求められる仕事を続けていると、結論の出ない話に付き合う体力が落ちます。効率を優先していると、意味のはっきりしないものを保留したまま抱えておく力も落ちます。この二つが落ちると、文学だけでなく、人の話も同じように入らなくなります。

見分け方は単純です。効かなくなったのが特定の作品群だけなのか、それとも何を読んでも同じなのか。前者なら条件の変化ですが、後者なら摩耗を疑ったほうがいい。ここを取り違えて「自分は成長したから響かないのだ」と説明してしまうと、本当に減っているものを見落とします。

自分に都合のいい説明を選ばないこと。この記事の主張を使うときの、唯一の注意点です。

判断基準は、その作品が自分の何を代弁していたか

自分に当てはめるときの手順を書いておきます。

まず、その作品が当時の自分の何を言い当てていたかを思い出します。孤独だったのか。誰にも理解されないと感じていたのか。自分の身体や容姿が受け入れられなかったのか。それとも、退屈な日常の外側を見たかったのか。

言い当てていたのが苦しさなら、いま効かないことは良い知らせです。その苦しさが薄れたという事実のほうが、感動より価値があります。読み返せないのは、読めなくなったからではなく、必要でなくなったからです。

言い当てていたのが外の世界の広さなら、いま効かないことは点検の合図になります。その場合に確かめるのは読書量ではなく、結論の出ない時間にどれだけ耐えられるかです。答えの出ない話を、答えを出さないまま数日持っていられるかどうか。ここが戻れば、たいてい読書も戻ります。

読めなくなったことは、失ったことと同じではない

若いうちに読んでおけばよかった、という後悔があります。あのとき読んでいれば、もっと深く受け取れたはずだ、という感覚です。

この後悔は、半分は当たっています。ある種の作品は確かに特定の時期にしか正確には届きませんし、その時期は戻ってきません。

ただ、届かなくなったことは、能力を失ったことと同じではありません。ある作品が効かないのは、その作品が必要とする状態から自分が離れたということです。三島の書いた美と破滅の論理が遠く見えるのは、読解力が落ちたからではなく、その論理を必要としない場所に立っているからです。そちら側にいることは、悪いことではありません。

本棚に、開いても何も起きなくなった本があるはずです。その本は、あのとき何を代弁してくれていたのでしょうか。

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