認められたい、という気持ちが自分の中にあります。経営者がそれを持つことで出しゃばりすぎてはいけないと分かっているので、口には出しません。ただ、会議で自分の提案に反応が薄いと妙に引っかかりますし、数字が上向いても数日で足りない感覚に戻ります。
よく言われる答えは、だいたい3つです。承認欲求は手放しなさい。自分で自分を認めなさい。社員とは働く動機が根本的に違うのだと理解しなさい。どれも間違ってはいません。
ただ、この3つはどれも、手放せた人が振り返って書いた話です。この記事が立てる問いは違います。手放そうとして、手放せなかった人は、どうすればいいのでしょうか。
承認欲求を手放そうとして、手放せなかった人がいる
先に、すでに試したことのある答えを引き取っておきます。
手放す、という方法があります。認められたい気持ちを持っていては経営はできないと決めて、意識から外す。実際、それで会社が前に進んだという話は何度も語られています。ただ、決めた翌週に部下の一言で揺れると、今度は揺れた自分を責めることになります。手放せたかどうかが、新しい採点項目に変わってしまう。
自分で自分を認める、という方法もあります。他人の評価に頼らず自己承認ができていれば、過剰な承認欲求は収まる、という考え方です。筋は通っていますが、自分を認めようとするとき、認めてよいと判断する主体もまた自分になります。その主体が「まだ足りない」と言い続けている場合、この方法は空回りします。
社員とは動機が違うのだと理解する、という方法もあります。これは実務上かなり有効で、無駄な苛立ちが減ります。ただし、これは他人との距離の取り方の話です。自分の内側で鳴り続けているものについては、何も言っていません。
3つとも効く場面があります。効かなかったからといって、あなたの側に問題があるわけではありません。3つとも、消えることを前提にした答えだった、というだけです。
トップの椅子まで登る動機を持つのは、満たされている人ではない
ここからは私の解釈です。学説として確立された議論ではありませんので、そのつもりで読んでください。
そもそも、経営者から承認欲求が消えることを期待するほうに無理があります。あの椅子まで登るには、途中で何度も降りられる機会があって、そのたびに降りないという選択をしなければなりません。降りない理由が要るのですが、満たされている人には、その理由がありません。
だから、統計を取れば経営者の分布は不安定な側に偏っているはずだと私は考えています。これは検証されたデータではなく、あくまで見立てです。ただ、創業者の伝記を並べて読むと、受験の失敗、家庭の欠落、若い頃の屈辱といった話が、驚くほど高い率で出てきます。彼らはそれを美談として語りますが、順番は逆かもしれません。欠落があったから登ったのであって、登ったから語れるようになったわけではない。
そうだとすると、経営者に「承認欲求を捨てろ」と言うのは、燃料を抜けと言っているのと同じです。抜けたらそもそも走りません。
問題は別のところにあります。
認められたい気持ちは、本人の態度よりも、その人が作った制度に出る
認められたい気持ちが強い経営者は、態度で分かると思われています。手柄を取る、話を聞かない、部下の失敗を責める。確かにそういう場面はありますが、それは目立つだけで、実害としては小さいほうです。
本当に効いてくるのは、制度のほうです。
長時間働く社員を、無自覚に高く評価する。家庭の事情で早く帰る社員を、口では認めながら重要な案件から外す。評価基準を最後まで言語化せず、「情熱」や「当事者意識」という言葉で埋める。これらは一つひとつを見れば悪意がなく、本人には自分の価値観を反映させているだけに見えます。
ただ、この設計を通ったあとの組織では、社員が経営者と同じ飢え方をしないと評価されなくなります。経営者は自分の飢えを制度に翻訳し、それを全員の前提として配ったことになる。しかも本人は、情熱のある会社を作ったと思っています。
ここで区別が要ります。飢えていることと、飢えを他人に強制することは別の話で、前者は本人を動かすもの、後者は他人を動かすものです。この二つが混ざるかどうかが、組織にとっての分かれ目になります。
では、何が混ぜてしまい、何が混ざらずに済ませるのでしょうか。
分かれ目は、ひどい記憶を持っているかどうかではない
ここからは心理学の側の話に移りますが、この節は事実として書ける部分です。
成人愛着面接(Adult Attachment Interview)という手法があります。メアリー・メインとルース・ゴールドウィンが作った採点システムに基づいて、大人が幼少期の養育者との関係をどう語るかを分類するものです。
この手法で最も意外なのは、分類の判定材料です。見られているのは、何が起きたかではなく、それをどう語るかのほうです。
ひどい体験を詳細に覚えていて、淡々と語ることができ、それが自分に何をしたのかを説明できる人は、安定した側に分類されます。逆に、恵まれた家庭だったと述べるのに、具体例を求めると何も出てこない人は、不安定な側に分類されます。良い記憶を持っていることではなく、記憶と感情と理由がつながっていることが見られている。
つまり、この判定は「何があったか」を測っていません。「それを自分でどう扱えているか」を測っています。
研究が見ているのは、記憶の量ではなく、記憶と感情と理由がつながっているかである
この違いに名前が付いています。獲得安定型(earned-secure)です。
ピアソン、コーン、コーワン、コーワンの4名が1994年に『Development and Psychopathology』6巻359から373頁に発表した研究では、二つの安定型が区別されました。幼少期に安定した関係を持ち、いまも安定している連続安定型。そして、幼少期には困難な関係だったと語りながら、その語りに一貫性があり、いまは安定していると分類される獲得安定型です。
この研究で報告されたのは、獲得安定型の人の子育てのあり方が、連続安定型と同等だったということです。過去がそのまま次に渡されるわけではなく、語れるようになると渡されなくなる、ということになります。
経営に引き直すと、渡す先は子ではなく、部下と会社になります。制度を書く手が変わる、という話です。
ここからは私の解釈ですが、この研究が示しているのは、飢えの有無ではなく、飢えの取り扱いだと思います。語れている人は、いま自分が何を求めているかを、その場で見分けられます。これは自分の飢えの続きなのか、それとも会社にとって必要な要求なのか。この見分けができれば、制度に混ぜずに済みます。
語れていない人には、この見分けができないまま、飢えが自動で作動します。しかも本人には、それが正当な要求として体験されます。
自分の過去を語れない人が作る制度は、自分が欲しかったものの形になる
語れないまま制度を書くと、その制度は本人が受け取れなかったものの形になります。認められなかった人は、認めることに厳しい制度を書く。見てもらえなかった人は、可視化を求める制度を書く。自分が守られなかった人は、守られない前提の制度を書く。
これは復讐ではなく、本人にとってはそれが世界の標準だからです。自分が通った道が唯一の道に見えていて、他の道があることを知らない。だから悪意なく、同じ道を全員に敷いてしまいます。
そして、この設計は短期的にはたいてい成果を出します。飢えた人間の推進力は本物なので、数字は伸びるからです。そして伸びるがゆえに、設計が正しかったことの証拠として扱われ、この段階から修正が効かなくなります。
語れる人の場合も、飢えの強さは変わりません。まだ足りない、という判定は出続けます。変わるのは、その声が出た瞬間に出所が見えることです。これは会社の要求ではなく、自分の続きだ、と分かる。分かっても飢えは消えませんが、それを他人に配らずに済みます。
飢えを燃料のままにしておいて、それが制度へ流れる経路だけを断つ。やっているのは、それだけです。
この見方のコストを、正直に書いておく
公平を期すために、逆側も書きます。この記事の足元を崩す研究があります。
ロイズマン、パドロン、スルーフ、エゲランドの4名が2002年に『Child Development』73巻1204から1219頁に発表した、23年の縦断研究です。ここでは、回顧的に獲得安定型と分類された人が、乳児期に本当に不安定な愛着だったのかが検証されました。結果は、連続安定型より不安定だったとは言えない、というものでした。それどころか、高リスクの標本の中では、むしろ支持的な養育を受けていたと観察されています。
これが意味することは重く、語りは実際に何が起きたかの記録ではない、ということになります。「ひどかった」と一貫して語れる人が、本当にひどい環境にいたとは限らない。
ですから、語れているかどうかは、過去の事実の証明にはなりません。使えるのは、いまの自分がその話をどう扱えているかの指標としてだけで、この記事の主張もそこまでの射程しかありません。
もう一つ、先ほどの1994年の研究では、獲得安定型に分類された女性が、連続安定型の女性より抑うつ症状を有意に多く報告していました。語れるようになることは、痛みが消えることとは違います。語れる状態は快適な状態ではない、ということです。
なお、気分の落ち込みが2週間以上続いている場合は、この記事の範囲を超えています。医療の領域なので、専門家に相談することを検討してみてください。
よくある疑問
Q:承認欲求が強いことは、経営者として不利なのでしょうか。
A:不利とは限りません。むしろ、その位置まで行く動機として働いていることが多いと考えられます。不利になるのは、それが評価制度や人事の設計に流れ込んだときです。強さではなく、経路の問題として見てください。
Q:自分が語れているかどうかを、どうやって確かめればよいのでしょうか。
A:人に話してみるのが確実です。話しながら、出来事と、そのとき何を感じたかと、それが自分に何をしたのかの3つがつながるなら、語れています。出来事だけが出てくる、あるいは感情だけが出て事実が出てこない場合は、まだつながっていません。
Q:前の経営者が作った制度を引き継いだ場合はどうすればよいのでしょうか。
A:制度を見て、その人が何を欲しがっていたかを読むところから始めるのが早いと考えられます。設計には、書いた人の飢えの形が残っています。何を測ろうとしているかではなく、何を測らないままにしているかを見ると出てきます。
Q:語れるようになれば、経営は楽になりますか。
A:楽にはなりません。飢えは残り、判定も出続けます。変わるのは、それに支配される時間の長さです。
判断基準は、自分の過去を人に説明できるかどうか
最後に、持ち帰れる基準を一つ置いておきます。
自分の原点にある出来事を、他人に説明できるでしょうか。美談にせず、被害の話にもせず、何が起きて、そのとき何を感じ、それが自分の何を作ったのかを、順番につなげて話せるかどうか。この3つがつながっていれば、あなたの飢えは記憶の側にあります。つながっていなければ、まだ現在の側にあり、制度を書く手に触れています。
一度も人に話したことがない出来事が一つある、という方は多いのではないでしょうか。話す相手は誰でもかまいません。配偶者でも、社外の人でも、専門家でも。目的は解決ではなく、その出来事に名前を付けることです。
あなたが最後に作った制度は、誰の飢えの形をしているでしょうか。
