月曜の朝が重い。日曜の夜から気持ちが沈みはじめる。宝くじが当たったら明日にでも辞めるのに。そんなふうに考えたことのある方は、少なくないのではないでしょうか。
世の中に流通している答えは、だいたい決まっています。年収800万円を超えると幸福度は頭打ちになる。お金と幸せは比例しない。だから自分にとっての幸せを見つけよう。
この記事が立てる問いは、少し違います。お金は、仕事の何を解決してくれるのでしょうか。
「辞めるなんてもったいない」と言う人は、自分の仕事が好きだと言っている
経済的な自由を手に入れた人が働かずにいると、もったいない、と言う人が現れます。人生を無駄にしている、という言い方をする人もいます。
この発言は、意見のように見えて、実は自己申告です。
そう言える人は、仕事が義務になっていません。義務でないから、やめる理由がない。やめる理由がない人にとって、やめることは損失に見えます。だから、もったいない、という言葉が出てくるわけです。
一方で、お金があれば辞めると言う人にとって、仕事は義務です。義務は解除したいものであって、続けたいものではありません。
この2人は、仕事という同じ言葉で、まったく別のものを指しています。だから議論が噛み合いません。噛み合わないまま、前者が後者に助言してしまう。お金と仕事をめぐる話が不毛になりやすいのは、この地点です。
宝くじに当たっても、人はあまり仕事を辞めていない
お金が入れば人は仕事を辞める。この直感を、大規模なデータで検証した研究があります。
セサリーニらの研究チームが、スウェーデンの宝くじ当選者を対象に、当選が労働にどう影響したかを調べました。2017年に American Economic Review に掲載されたものです。当選金額はくじの抽選によってランダムに割り当てられるため、金銭が労働に与える影響を比較的きれいに取り出せる設計になっています。
結果は、労働所得はわずかに減るだけ、というものでした。
減少は当選の直後に起き、その後も持続します。年齢、学歴、性別による差もほとんど見られませんでした。研究チームが推計した生涯の限界稼得性向は平均でマイナス0.11。20歳の時点でマイナス0.17、60歳でマイナス0.04です。
数字を言い換えます。棚ぼたで100万円を得たとき、その人が生涯で減らす労働所得は11万円ほど。残りの89万円分は、働き続けるということです。
ここで一点、事実と解釈を分けておきます。この研究が測ったのは労働供給であって、幸福度ではありません。当選者が幸せになったかどうかは、この数字からは分かりません。指摘できるのは、お金が入っても人は思ったほど辞めない、という事実だけです。
お金が消せるのは、辞められないことだけである
なぜ辞めないのか。答えは単純で、お金にできることが1つしかないからです。
生活費を賄えるようになると、辞められない、という状態が消えます。ここでは、これを解除と呼びます。
解除が起きても、仕事そのものは1ミリも変わりません。上司も、通勤も、意味の見えない会議も、そのまま残ります。締切も残ります。変わるのはたった1つ、それらに耐えなければならないという条件が外れることだけです。
お金は引き算しかできません。何かを足してくれるわけではないのです。
だから、仕事が辛いという状態は、お金では消えません。消えるのは、辛いのに辞められないという状態のほうです。この2つは日常の感覚のなかで溶け合っていますが、構造としては別の層にあります。
年収800万円で頭打ちという話は、もう更新されている
お金と幸福について、多くの方が一度は聞いたことのある数字があります。年収800万円を超えると幸福度は上がらない、というものです。
出どころは、カーネマンとディートンが2010年に発表した研究です。感情面での幸福度は収入とともに上昇するが、6万ドルから9万ドルのどこかで平坦になる、という内容でした。これが日本では800万円という数字になって広まりました。
ところが2021年、ペンシルベニア大学のキリングスワースが、別の方法で調べ直します。スマートフォンで日中に何度も通知を送り、そのときの気分をその場で答えてもらう手法です。結果は正反対でした。7.5万ドルを超えても幸福度は上がり続け、頭打ちは見られなかったのです。
2人は2023年、共同で生データを再分析します。結論は、どちらも正しかったが、別々の集団について正しかった、というものでした。
平坦化は存在する。ただし、それは最も不幸な下位20パーセントに限られていた。それ以外の層では収入とともに幸福度は上がり続け、最も幸福な層では加速すらしていた。
そしてこの論文には、もう一文あります。下位20パーセントの苦痛は10万ドルまでは収入とともに和らぐが、それ以上ではほとんど動かない。これは、残された不幸が高い収入では和らげられなくなる地点かもしれない。
つまり、お金で消える不幸と、お金では消えない不幸が分かれる地点がある。研究者たちは幸福度の測定という別の入口から、同じ構造にたどり着いています。
解除したあとに何を入れるかは、お金と無関係に決まっている
解除は引き算です。引き算をすれば、あとには空白が残ります。
その空白に何を入れるかは、お金では決まりません。ここでは、これを充填と呼びます。
経済的な自由を達成したあとに虚無を感じる人がいます。原因は達成の失敗ではありません。解除だけを済ませて、充填を持っていなかったことです。義務が外れた瞬間、外れたあとに何が残るかが露わになる。何も残らなければ、そこには空白だけがあります。
充填になるかどうかの見分け方は、1つだけです。義務がなくなっても、それが続くかどうか。
続くものは充填です。義務が外れた途端に消えるものは、充填ではなく、義務の裏返しだったということになります。
そして充填は、お金が入る前から手元にあるものからしか育ちません。買ってきたものは、たいてい解除の延長として消費されて終わります。
辞める自由は、使わないまま持っているほうが効く
ここからは私の解釈です。研究として確立された議論ではありませんので、そのつもりで読んでください。
同じ作業でも、逃げられない状態でやるのと、いつでも降りられる状態でやるのとでは、まったく別の体験になります。前者は義務です。後者は選択です。外形は同じでも、中身が違います。
そして選択に変わった仕事を、人はあまり辞めません。
宝くじの研究が示していたのは、この構造かもしれないと私は考えています。当選者は、辞める自由を手に入れた。手に入れた結果、辞める必要がなくなった。自由は、使うためではなく、持っているために価値があったという読み方です。
私自身のことも書いておきます。私は現在、辞められる状態にあります。生活費と、無職になった場合にかかる社会保険料や住民税を積み上げて、数字が成立することも確認しました。制度を調べ、必要額を計算し、足りていると分かった。
そのうえで、辞めていません。
辞めない理由は、もったいないからではありません。義務ではないからです。
お金がなくても解除はできるし、お金があっても解除できないことがある
公平を期すために、逆側も書きます。
お金と幸せは比例しない、という主張は、しばしば負け惜しみに聞こえます。本当はお金があれば今より幸せになれると思っているのに、それを認めると自分が惨めになるから、比例しないと言い聞かせている。そういう指摘は、実際に存在します。
この指摘には理があります。だから私は、この記事を解除が済んだ側から書いています。届いていない場所から、届かなくていいと言うつもりはありません。
そのうえで、解除の経路はお金だけではない、ということも書いておきたいのです。
支出が小さいこと。どこでも通用する職能があること。転職先の当てがあること。家族に収入があること。いずれも、辞められないという状態を弱めます。金額の話ではなく、逃げ道が何本あるかの話です。
逆に、資産が十分にあっても解除できない人もいます。周囲の目、家族の期待、ここまで来たのだからという自分自身の慣性。義務は、経済的な必要性以外の場所からも湧いてきます。
だから金額と義務感は、そもそも別々に動く変数です。同じ方向に動くことが多いから、同じものに見えているだけです。
判断基準は、明日それが要らなくなっても続けるかどうか
読者の方が自分に当てはめられる基準を、1つだけ渡します。
いま自分がやっている仕事について、明日から給料が不要になったとして、それでも続ける部分がどれくらいあるかを見てください。
まったくないなら、その仕事は義務です。全部残るなら、すでに解除されています。
そして多くの方は、その中間にいるはずです。ここが重要なところで、中間にいるなら、解除は全部か無かではありません。濃度の問題になります。
義務の濃度を下げる方法は、資産形成だけではありません。支出を1つ削る。断れる仕事を1つ断る。辞めても困らない状態を1つだけ作る。どれも、逃げ道を1本増やす行為です。
そして逃げ道が増えると、不思議なことに、逃げなくてよくなります。
いきなり全部を解除する必要はありません。まずは1本だけ、自分の状況で試してみてはいかがでしょうか。
よくある疑問
Q:お金があれば、仕事の悩みは解決するのでしょうか。
A:解決するのは、辞められないという一点だけです。仕事の内容も、人間関係も、拘束時間も、お金が入っただけでは変わりません。変わるのは、それらに耐えなければならないという条件が外れることです。
Q:経済的な自由を達成した人が、なぜ働き続けているのでしょうか。
A:働くことが義務でなくなったからです。義務でなくなった仕事には、やめる理由がありません。もったいないから続けているのではなく、やめる必要がないから続いています。
Q:お金と幸せは比例しないという話は、お金がない人の言い訳ではないでしょうか。
A:そう聞こえる場合はあります。ただし、収入と連動するのは購買力までで、仕事が義務かどうかは別の変数です。資産があっても解除できない人がいることが、その証拠になります。
お金は鍵を渡すが、部屋の中身までは決めない
お金が終わらせてくれるのは、仕事が辛いことではありません。辛いのに辞められない、という状態のほうです。
そして辞められる状態になった人の多くは、辞めません。宝くじに当たっても、労働所得はわずかしか減りませんでした。義務でなくなった仕事は、続けても損失になりません。
だから、お金があればすべてが解決するという考え方は、半分だけ正しいということになります。解除までは、確実に効きます。解除したあとに何を入れるかは、お金の管轄の外にあります。
あなたが今やっている仕事のうち、明日から要らなくなっても続ける部分は、どれくらいあるでしょうか。






