責任の重さに潰されないのは、鈍いからではなく、退路があるからである

責任の重い仕事を任された。周りからは評価されている。それなのに、朝起きた瞬間から気が重い。判断を間違えれば人が動き、数字が変わり、誰かの立場も変わる。その重さを自分ひとりで抱えている感覚がある方は、少なくないと思います。

よく言われる対処法は、だいたい3つです。気晴らしをすること、一人で抱え込まずに相談すること、責任を任されるのは信頼の証だと捉え直すこと。どれも間違ってはいませんし、実際に効く場面もあります。

それでも、全部やってみて消えない重さが残ります。この記事が立てる問いは、そこです。同じ重さの責任を背負っていて、潰れる人と潰れない人がいるのは、なぜでしょうか。

目次

責任の重さは、潰れるかどうかを決めていない

まず、一つ確認しておきます。責任の重い仕事に就いている人が、全員同じように消耗しているわけではありません。

同じ役職で、同じ量の判断を求められていて、片方は淡々と続けているのに、もう片方は眠れなくなる。この差は、実際に起きています。

淡々と続けているほうを見て、あの人は鈍いのだろう、と考える人がいます。神経が太い、打たれ強い、といった説明です。

けれど、この説明では足りない場面があります。同じ人が、ある時期には平気で、別の時期には潰れることがあるからです。本人の神経の太さは、その間に変わっていません。変わったのは本人ではなく、その人が置かれた条件のほうだと考えたほうが実態に近いはずです。

気晴らしも相談も、潰れることの原因そのものには触れていない

責任の重い仕事のプレッシャーについて、世の中に流通している答えは、すでに出そろっています。

気分転換をする。一人で抱え込まずに上司や同僚へ相談する。業務量が多すぎるなら見直しを申し出る。責任を任されるのは信頼されている証拠だと捉え直す。これらはどれも有効な手当てで、実際に楽になる場面もあります。

ただ、共通しているのは、すでに背負っている重さをどう扱うかという話でしかないことです。その重さがなぜ効いてくるのか、という手前の問いには触れていません。

だから、全部やっても残るものがあります。相談できる相手がいて、休みも取れていて、それでも気が重い。この状態を、手当てが足りていないからだと説明することはできません。

同じ激務でも、壊れる人と壊れない人に分かれる

ここで一つ、古い研究を引きます。ロバート・カラセックが1979年に「Administrative Science Quarterly」誌の第24巻285ページから308ページに発表した「Job Demands, Job Decision Latitude, and Mental Strain: Implications for Job Redesign」という論文です。アメリカとスウェーデンの労働者データを分析したものです。

この研究が見つけたのは、仕事の要求度だけを見ても精神的な負荷は説明できない、ということでした。

要求度が高いこと自体は、負荷に直結していませんでした。負荷と強く結びついていたのは、要求度が高く、かつ自分で決められる余地が小さいという組み合わせのほうです。カラセックはこの状態を high strain と呼びました。

逆の組み合わせもあります。要求度が高く、自分で決められる余地も大きい仕事です。こちらは active jobs と名づけられ、精神的な負荷ではなく、習熟と満足度のほうに結びついていました。

同じだけ忙しく、同じだけ難しい判断を求められていても、結果は正反対になり得るということです。

分かれ目にあるのは、量ではなく決められる余地である

この結果は、責任の重さを量で測る発想そのものを崩します。

私たちは普段、仕事のきつさを量で語ります。何時間働いたか、何人の部下を見ているか、いくらの予算を預かっているか。

けれど、負荷を決めているのは量ではありませんでした。決めていたのは、その量に対して自分がどれだけ手を出せるか、という余地のほうです。

だから、決められる余地が小さいまま量だけが増えると、負荷は跳ね上がります。板挟みの立場がきついのは、量が多いからではなく、両側から来るものを自分で選べないからです。

逆に、量が同じでも順番を決められる、断ることができる、やり方を変えられる。この余地を持っている人は、同じ量を抱えていても壊れません。

退路のない重さと、退路のある重さは、負荷の質が違う

ここからは私の解釈です。学説として確立された議論ではありませんので、そのつもりで読んでください。

カラセックが測った余地は、あくまで仕事の中での余地です。進め方を選べるか、判断に関与できるか。その仕事に就いたまま、内側でどれだけ動けるかを見ています。

私が付け加えたいのは、その外側にもう一段あるということです。その仕事から降りられるかどうか、という余地のほうです。この記事では、それを退路と呼びます。いま辞めても当面の生活が続く状態、と言い換えてもかまいません。

退路がない状態で重い責任を持つと、判断の一つひとつに生存がぶら下がります。ここで失敗したら終わる、という前提が常に足されます。同じ判断でも、乗っている重さが違います。

退路がある状態では、その前提が外れます。失敗したら困りますが、終わりはしないので、判断を判断のまま扱えるようになります。

この違いは精神論では埋まりません。同じ判断に乗っている条件そのものが違うからです。

退路があることのコストを、正直に書いておく

ここまで読むと、退路を作ることが万能に見えるかもしれません。公平を期すために、逆側も書きます。

退路があると、踏ん張りが効かなくなる場面があります。いつでも降りられる人は、あと少し粘れば越えられた山を、越えないまま降りることができてしまいます。

もう一つ、退路を作るには時間がかかります。生活費を賄える資産や複数の収入源は、思い立った日には手に入りません。いま重圧の只中にいる方にとって、これは今日の役に立たない答えです。

そして、退路を持っていることは周囲からは見えません。あの人は責任のある立場をこなしている、としか映らないので、配慮が増えるわけでもありません。退路は、自分の内側でだけ効く条件です。

退路は、気合いや覚悟では作れない

では、いま何ができるのか。手順ではなく基準を3つ渡しておきます。

1つ目は、いま辞めた場合に生活が何か月続くかを、実際に数えてみることです。数えると、頭の中で無限に大きくなっていた不安が、有限の数字に変わります。3か月なのか3年なのかで、背負っている重さはまったく別のものになります。

2つ目は、収入の出どころがいくつあるかを見ることです。1か所しかない状態では、その1か所での判断すべてに生存がぶら下がります。2つ目ができた時点で、1つ目の判断の重さは目に見えて軽くなります。金額の大小より、本数のほうが効きます。

3つ目は、その仕事の中で自分が決められることを、具体的に挙げてみることです。何を引き受けるか、いつやるか、誰に振るか。1つも挙がらないなら、それは責任が重いのではなく、決められる余地がないまま量だけが乗っている状態です。カラセックが high strain と呼んだ組み合わせに近づいています。

3つとも、気合いとは関係のない項目です。数えるか数えないかの差しかありません。

なお、眠れない日や気分の落ち込みが2週間以上続いているなら、それはこの記事の話ではありません。医療の領域なので、専門家に相談することを検討してみてください。

よくある疑問

Q:責任の重い仕事のプレッシャーは、慣れれば軽くなるのでしょうか。

A:慣れで軽くなる部分と、軽くならない部分があります。判断そのものは経験で速くなります。ただし決められる余地が小さいまま量が増えている場合、慣れても負荷は下がりません。カラセックの研究が示したのは、負荷が量ではなく組み合わせで決まるということでした。慣れは量の側にしか効きません。

Q:退路がない状態で重い責任を持つのは、避けたほうがよいのでしょうか。

A:避けられるなら、そのほうが消耗は少なくなります。ただ多くの人にとって順序は逆で、重い責任を引き受けた結果として収入が増え、そこから退路が作られます。問題は、退路ができた後も、できる前と同じ感覚で判断し続けてしまうことです。条件が変わったことに本人が気づいていない場合があります。

Q:辞めるつもりがないのに、退路を用意する意味はあるのでしょうか。

A:あります。退路の効き目は、使うことではなく、あることそのものにあるからです。使わないまま持っている状態が、判断から生存を切り離します。

今の重圧に、退路はあるか

責任の重い仕事がきついかどうかは、責任の大きさでは決まりません。決めているのは、その重さを自分がどれだけ動かせるか、そして、いざとなれば降りられるかどうかのほうです。

潰れずにやっている人は、鈍いわけでも覚悟が違うわけでもなく、同じ重さを別の条件の上で持っているだけです。

だから、いま重圧に押されている方に確かめてみてほしいのは、自分の強さではありません。自分がいま立っている条件のほうです。

いま辞めたとして、あなたの生活は何か月続きますか。

  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次