昇進の話をもらった。年収も上がる。なのに、素直には喜べない。
引き受けたあとの自分の生活を想像すると、なぜか気が重くなる。そんなふうに感じている方は、少なくないと思います。
よく言われる理由は、だいたい3つです。責任が重くなること。上と下の板挟みになること。残業代が出なくなって、かえって手取りが減る場合があること。どれも事実ですし、どれも納得できます。
私自身はここのコントロールし、役職の面でもコントロールができるようになりました。ただ、その3つを全部並べてみても、まだ説明しきれていないものが残ります。
この記事が立てる問いは、そこです。昇進で本当に増えているのは、何なのでしょうか。
断りたい理由は、どれも結果であって原因ではない
責任も板挟みも手取りの逆転も、原因ではなく結果です。3つとも、もっと手前にある一つの変化から派生しています。
責任が重くなるというのは、自分が判断しないと止まる場所が増えた、ということです。板挟みになるというのは、上からも下からも声がかかるようになった、ということです。手取りが減るというのは、時間を単位に売るのをやめて、定額で受けるようになった、ということです。
3つの言い換えには、同じ要素が含まれています。誰かが、こちらの都合とは無関係に、こちらの時間に入ってくるという要素です。
年収は、労働の対価ではなく割り込み権の対価である
役職が上がるほど、予定を自分で決められなくなります。
決裁、相談、報告、トラブル。どれも向こうから来ます。来る時刻をこちらが指定することはできません。役職とは、判断を求められる場所のことなので、判断が必要になった瞬間に呼ばれる立場に置かれます。
ここからは私の解釈です。学説として確立された議論ではありませんので、そのつもりで読んでください。
上がった給与が買っているのは、働く時間ではないと考えています。買っているのは、他人があなたの時間に割り込んでよいという権利のほうです。この記事では、これを割り込み権と呼びます。
この見方を採ると、いくつかの現象が一度に説明できます。役職者の給与が時間ではなく定額で決まるのは、売っているものが時間ではないからです。残業代という概念が消えるのも、同じ理由です。そして、断りたくなる気持ちが金額の多寡と関係なく湧いてくるのも、値段の問題ではなく、売り渡しているものの種類の問題だからです。
中断された仕事は、遅くならない。速く終わる
割り込みの本当のコストは、時間ではありません。ここは実験で確かめられています。
グロリア・マーク、ダニエラ・グディット、ウルリッヒ・クロッケの3氏が2008年のCHIで発表した「The Cost of Interrupted Work: More Speed and Stress」という研究があります。48名の被験者に人事担当者の役を与え、メールに返信させる課題です。中断なしの条件と、2分おきに上司役から質問が入る条件を比較しました。
結果は直感に反しています。中断なしの条件が22.77分かかったのに対し、中断ありの条件は20.31分と20.60分でした。中断されたほうが速く終わったのです。誤字の数にも、文面の丁寧さにも、有意な差はありませんでした。
では何が違ったのか。20点尺度で測った主観的な負荷のほうです。ストレスは6.92から9.46へ、フラストレーションは4.73から6.63へ、いずれも有意に上昇しました。時間的なプレッシャーも、投入した労力も同じ方向に動いています。
論文の著者たちは、こう解釈しています。人は中断されると、失う時間を見越して速く働くようになる。文面を短くし、処理を急ぐ。仕事は終わる。ただし代償を払っている、と。
もう一点、この研究には見落とされがちな発見があります。中断の内容が仕事と関係があるかどうかは、コストに影響しませんでした。人事の話で中断されても、社内イベントの話で中断されても、負荷はほぼ同じだったのです。
つまり、中身のある相談ならまだ耐えられる、という直感は支持されません。程度の低い相談だから消耗するのではありません。割り込まれること自体が、内容と無関係にコストを生んでいます。
奪われるのは、働いた時間ではなく働いていない時間である
割り込みが厄介なのは、来ていないときにも効いてくるからです。
いつ来るか分からない連絡を待っている状態では、空いている時間も完全には自分のものになりません。何かを始めようとするたび、途中で切られる前提で組み立てることになります。深く入り込む作業を避け、いつ止めても損の少ない作業を選ぶようになります。
ここに、この問題が可視化されにくい理由があります。稼働時間だけを見れば、役職者の労働時間はそれほど長くないことがあります。会議に出て、決裁して、相談に答える。合計すれば、現場にいた頃より短い場合すらあります。
それでも消耗する。数字に出ないので、周りにも本人にも説明ができません。頑張りが足りないのだろうか、と自分を疑うところまで含めて、この構造の一部です。
拘束されているのは、働いた時間ではありません。働いていない時間のほうです。
向いていないという感覚は、性格ではなく設計への反応である
管理職になりたくない理由として最も多く挙がるのは、自分は向いていないから、というものです。この感覚は、自信の欠如として片付けられがちですが、私はそう思いません。
先ほどの研究には、個人差についての分析も含まれています。新しい経験への開放性と、自分の中に構造を求める度合い。この2つが、中断されながら課題を終える速さを予測しました。つまり、割り込みへの耐性には、もともと個人差があります。
耐性が低いことは、能力の欠如ではありません。予定を組んで、順に片付けて、深く入り込むことで力を出すタイプの人がいるというだけのことです。そういう人にとって、割り込みが常態化した設計は、単純に相性が悪い。
向いていないという感覚は、性格の弱さではなく、設計に対する正確な反応だと考えたほうが実態に近いはずです。自分を疑う前に、置かれた設計のほうを見てみてはいかがでしょうか。
なお、すでにその立場にいて、眠れない日や気分の落ち込みが2週間以上続いているなら、それはこの記事の話ではありません。医療の領域なので、専門家に相談することを検討してみてください。
昇進を断るコストを、正直に書いておく
ここまで読むと断るほうが得に見えるかもしれませんが、公平を期すために逆側も書きます。
一度断った席は、多くの場合ふたたび回ってきません。昇進に消極的だという評価は残り、その後の育成の対象からも外れやすくなります。年齢が上がってからの選択肢は、確実に狭くなります。後輩が上司になる状況も、いずれ訪れます。
転職すれば解決するわけでもありません。役職を避けて動いても、行った先で同じ話が持ち上がります。避け続けられる期間には限りがあります。
そして、いちばん大きいコストを書いておきます。組織の全体像は、割り込みの束としてしか届かないということです。
誰が困っていて、どこが詰まっていて、何が本当の争点なのか。こうした情報は、整理された報告書ではなく、不意に飛び込んでくる相談やトラブルの形でやってきます。割り込みを引き受ける立場から降りるということは、その情報経路から降りるということでもあります。
割り込みは、コストであると同時に、情報の入口です。ここを引き受けない選択には、見えなくなるものが必ずついてきます。
判断基準は、増える金額ではなく増える割り込みの数
昇進を打診されたときに使える基準を、3つ渡しておきます。手順ではなく基準なので、自分の状況に当てはめて使ってください。
1つ目は、増える年収を増える割り込み回数で割ってみることです。年間で100万円上がり、これまで来なかった連絡が週に10件増えるなら、1件あたり2,000円ほどになります。この単価が高いと感じるか安いと感じるかは人によって違いますが、少なくとも金額だけを見るよりは判断の解像度が上がります。
2つ目は、割り込みが来ない時間帯を確保できるかどうかです。1日のうち2時間でも、誰も入ってこない時間が制度として守られるなら、負荷はかなり変わります。逆に、常時つながっていることを暗黙に期待される設計なら、金額がいくらでも消耗は続きます。
3つ目は、割り込みの中身を自分で選べるかどうかです。何を引き取り、何を差し戻すかを決められる立場かどうか。ここが握れているかいないかで、同じ役職名でも実態がまったく違います。
3つとも、面談の場で確認できることです。給与テーブルの話に入る前に聞いておくほうが、あとから交渉するより通ります。
よくある疑問
Q:昇進を断ると、キャリアは終わってしまうのでしょうか。
A:終わりはしませんが、同じ組織の中での選択肢は狭くなります。一度断った席が戻ってくることは稀ですし、育成の対象からも外れやすくなります。ただし、それが致命傷になるかどうかは、その先で何を積むかによります。役職以外に説明できる実績を持っている人は、断っても行き先が残ります。
Q:割り込みが多い立場でも、うまくやっている人がいるのはなぜでしょうか。
A:割り込みへの耐性には個人差があることが、研究でも示されています。加えて、割り込みの中身を選べる立場にいるかどうかで実態が大きく変わります。同じ役職名でも、何を引き取るかを自分で決められる人と、来たものをすべて引き取る人とでは、消耗の度合いがまったく違います。
Q:年収が上がるのに断るのは、もったいなくないでしょうか。
A:もったいないかどうかは、増える金額と、失う時間の決定権を並べて比べないと決まりません。金額は数字で示されるのに、決定権のほうは数字にならないので、比較が金額側に傾きやすくなります。傾いていることを自覚したうえで判断するなら、どちらを選んでも後悔は小さくなるはずです。
昇進の損得は、金額ではなく時間の決定権で測る
昇進を迷うときに比べているものは、たいてい金額と責任です。けれど実際に取引されているのは、他人が自分の時間に入ってきてよいという権利のほうだと考えています。
割り込みは、仕事を遅らせません。速く終わらせます。だから外からは何の問題も起きていないように見えます。減っているのは、終わったあとの自分の状態と、来ていない時間の質のほうです。
この取引を、悪いものだと言いたいわけではありません。割り込みを引き受けることでしか手に入らない情報があり、そこからしか見えない景色もあります。ただ、何を売っているのかを知らないまま値段だけで決めると、あとから合わないと感じる確率が上がります。
あなたの1日のうち、誰も入ってこられない時間は、いま何時間ありますか。







