優秀な人が辞めるのは、待遇ではなく、この会社にしかないものが消えたからである

「少し、お時間をいただけますか」。そう切り出してくるのは、たいてい辞めてほしくない人のほうです。優秀な人ほど他社からも欲しがられ、抜けられると痛い。引き止めたいのに、差し出せる手が見つかりません。

引き止めの手として挙がるものは、だいたい決まっています。裁量権を与える。成長の機会を用意する。日頃から本音を聞く。どれも間違っていません。ただ、すでに一通り試したうえで行き詰まっている方も多いはずです。

この記事が立てる問いは違います。施策の巧拙の前に、そもそも人を留めておける前提が、まだ残っているのでしょうか。

目次

引き止めが効かないのは、施策が下手だからではない

同じ施策の効き目が落ちているなら、疑うべきは施策ではなく前提のほうです。

考えてみると、会社が人を留めておけたのには理由がありました。ひとりでは仕事にならなかったからです。設備がない。顧客に届く経路がない。そして契約で縛られている。この3つが揃っている限り、辞めるという選択は現実的ではありませんでした。

面白いことに、この3つが同時に抜けていく様子を、音楽業界が先に通り抜けています。バンドとレーベルの関係は、雇用より露骨に、留める側と留まる側の力関係が出る場所でした。そこで何が起きたのかを見ると、いま職場で起きていることの輪郭がはっきりします。

順に見ていきます。

制作の資本が要らなくなり、個人が組織なしで成立するようになった

1つ目に抜けたのは、設備と資本の優位です。

かつて音楽をつくるには、スタジオを何百時間も押さえる資金が必要でした。その資金を出した側が原盤権を持ち、収益の配分を決める。権利の重心は、資本を出した者の側にありました。バンドが不利な条件を飲んだのは、それしか作る方法がなかったからです。

いまは自室で録音できます。機材の値段が数桁下がり、制作という工程だけを見れば、組織を通す必要がなくなりました。

あなたの職場でも同じことが起きています。かつて会社にしかなかったものが、個人の手元に移りました。高価なソフトウェアは月額のサブスクリプションになり、分析も設計も生成AIが肩代わりします。優秀な人が自分ひとりで出せる成果の量は、10年前とは別物です。

会社が提供していた「作れる環境」は、もう差になりません。

届ける手段が、年に数千円で買えるようになった

2つ目に抜けたのは、顧客に届く経路の独占です。

音楽の流通は、長らく大資本にしか持てない機能でした。全国のCD店に商品を並べる網を、個人が用意することはできません。だからバンドは、取り分の大半を渡してでもレーベルと組む必要がありました。

いまTuneCore Japanを使えば、年間4,400円の定額プランで曲数の制限なく、55以上の配信ストアに届けられます。収益は100パーセント還元されます。かつて数十パーセントの取り分と引き換えに買っていた機能が、年に数千円になりました。

会社の場合、これに当たるのは顧客との接点です。看板、営業網、既存顧客の名簿。優秀な人ほど、自分の名前で発信し、自分で仕事を取れる状態に近づいています。会社を通さないと顧客に会えない時代ではなくなりました。

そして法律が、縛る側の根拠を削りにきた

3つ目に抜けているのは、契約で縛るという手段そのものです。

公正取引委員会は2024年12月、実演家と芸能事務所の取引について初めての実態調査を公表しました。長期にわたる専属契約の義務付け、移籍や独立の妨害、独立後の芸名の使用制限が、独占禁止法上問題となる恐れがあると指摘しています。翌2025年9月には、実演家等と芸能事務所、放送事業者等及びレコード会社との取引の適正化に関する指針も公表されました。

踏み込みが強いのは競業避止義務の扱いです。公正取引委員会は、実演家が事務所の営業秘密を知ることは原則としてないと考えられることなどを踏まえ、競業避止義務を課すこと自体の必要性と相当性が認められない可能性が高く、原則として契約上規定すべきではないという見解を示しました。退所する人や移籍先に移籍金を要求する行為も、問題となる例として挙げられています。

ここからは私の解釈です。これは芸能分野を対象とした指針であり、一般企業の雇用契約にそのまま適用されるものではありません。ただ、根拠として使われている論理は業界を選びません。守るべき営業秘密がないなら、活動を制限する必要性も認められない。この筋道が通るなら、同じ問いは他の業界にも向けられていくと考えています。

3つの変化は、それぞれ別の原因から起きています。ただ向いている方向は同じです。留める側が持っていた手札が、順番に減っています。

残ったのは、機能で選ばれ続けることだけである

ここでこの記事の中心になる考え方を置きます。留まる理由の非対称、と呼ぶことにします。

会社が人を留める根拠と、人がその会社に留まる理由は、別のものです。前者は設備であり、経路であり、契約の縛りでした。後者は、ここでしかできない仕事であり、一緒にやりたい相手であり、自分ひとりでは届かない規模です。

非対称というのは、前者が消えても後者は消えないという意味です。手札が減ったことと、人が去ることは、直結していません。

現に、機能を提供し続けることで選ばれている例があります。L’Arc-en-Cielは2024年に自主レーベルを設立しましたが、CDの販売元は従来どおりソニー・ミュージックレーベルズのままです。権利は自分の側に置き、流通は買い続けている。ソニーは縛っているのではなく、流通という機能で選ばれ続けています。

Hi-STANDARDも同じ形を通っています。横山健さんは1994年、所属していたトイズファクトリーの中にレーベル内レーベルとしてPIZZA OF DEATHを立ち上げ、制作を自分たちの側に持ってきました。この時点で流通はメジャーのまま。完全に独立したのは1999年のアルバム『MAKING THE ROAD』からで、インディーズでの発売ながらチャート3位、累計65万枚を超えています。

送り出したレーベルは、踏み台として使われたとも言えます。けれど囲い込んで引き止めていたら、この結果はなかったでしょう。

Q:優秀な人を辞めさせないために、いちばん効く施策は何でしょうか。
A:施策の前に、その人がいま会社から受け取っている機能を書き出してみてください。設備、顧客との接点、仕事の規模、一緒に働く相手。書き出したものが、外で同じ値段で手に入るかを確かめます。手に入るものは、もう留める理由になっていません。残ったものが、あなたの組織が提供できている機能です。

選ばれ続ける組織のコストを、正直に書いておく

この考え方には、はっきりしたコストがあります。公平を期すために、逆側も書きます。

囲い込みは楽でした。一度契約を結べば、あとは相手の選択肢を狭めておくだけで済みます。機能で選ばれ続けるというのは、その逆です。毎年、外の選択肢と比べられ続けることを意味します。

比較にさらされる状態は、経営としては安定しません。給与も、任せる仕事も、外の水準を見ながら決め直すことになります。育てた人が去る前提でも回る設計が必要で、属人化を放置できません。管理の手間は明らかに増えます。

もう一つ、正直に書いておくべきことがあります。この考え方は、去られる痛みを消してくれません。優秀な人が去るのは痛い。それは前提が変わっても変わらない事実です。

ただ、消えた手札を惜しんで縛る方向に戻ろうとすると、いまはそこに法的なリスクまで乗るようになりました。戻り道が塞がっているというのが、いまの状況だと思います。

判断基準は、明日この人が独立できるかである

明日から使える形に畳んでおきます。3つの問いです。

1つ目。この人が明日独立したとして、持ち出せないものは何でしょうか。何も思いつかないなら、その人はもう外にいるのと変わりません。

2つ目。持ち出せないものは、契約の縛りでしょうか、それとも機能でしょうか。縛りだけが理由なら、それは時間とともに弱くなる資産です。機能なら、投資する価値があります。

3つ目。その機能を、あと3年維持できるでしょうか。かつて流通が年4,400円になったように、いま優位に見える機能も値下がりします。維持できないなら、次の機能を仕込む時期です。

3つ目まで埋めると、引き止めの話ではなくなっているはずです。何を提供し続ける組織なのか、という問いに変わっています。

手札は減った。それでも選ばれることはできる

優秀な人が辞めていくとき、私たちはつい引き止め方を探します。けれど留められた時代を支えていたのは、施策ではなく前提でした。設備の優位、経路の独占、契約の縛り。その3つが、別々の理由で薄くなっています。

前提が戻らないなら、残っている道は一つです。縛らずに選ばれ続けること。実際にそれで成立している関係は、すでに存在します。

去る自由がある相手に選ばれるのは、囲い込むより難しい仕事です。ただ、そうやって残った人との関係は、契約が切れても壊れません。

あなたの組織が提供している機能は、いま何でしょうか。

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