仕事で分かったことがある。それを誰かに伝えたら役に立つはずだという感覚もある。
けれど、書けない。会社の名前を背負っているし、扱っているのは社内の話です。そう思って、何も書かないまま何年も過ぎている方は、多いのではないでしょうか。
匿名なら書けるのではないか。そう考えて調べると、たいてい同じ答えが返ってきます。匿名はプライバシーを守れるが信頼を得にくい、実名は信頼を得やすいが身バレする、だから仮名で両方のいいところを取るのがいい、と。
この整理は間違っていません。ただ、ひとつだけ扱われていない論点があります。この記事が立てる問いは、そこです。実名にすると、そもそも書けなくなるものがあるのではないでしょうか。
匿名を守りの選択と考えると、論点をひとつ落とす
匿名をリスク回避として理解すると、それは常に「本当は実名がいいが、事情があるので隠す」という話になります。
この枠組みで語られる匿名のデメリットは、決まって同じです。現実世界の実績を引き継げない。会社での経歴も、担当してきた仕事も、匿名にした瞬間に使えなくなる。だから匿名を選ぶ人は、資産を封印していることになります。
これは半分正しいと思います。実際に、肩書きは使えなくなります。
ただ、この整理には逆側が抜けています。実名にした瞬間に使えなくなるものがあるかどうかを、誰も検討していません。
実名で書く人には、構造的に書けない領域がある
会社に所属したまま実名で発信すると、書ける内容の範囲がその時点で決まります。
自社の判断を批判することはできません。うまくいかなかった施策を、うまくいかなかったと書くこともできません。社内の力関係、決裁が通らなかった理由、経営者との調整。実務でいちばん時間を使っている部分は、まるごと書けなくなります。
理由は本人の勇気ではありません。企業には広報の統制があり、社外への発信は基本的にその管理下に入ります。所属と名前が結びついている以上、書いたものは個人の意見ではなく会社の発信として読まれます。だから慎重にならざるを得ないのです。
ここからは私の解釈です。学説として確立された議論ではありませんので、そのつもりで読んでください。実名か匿名かという選択は、信頼をどう作るかの問題であると同時に、書ける範囲をどこまで持つかの問題でもあると考えています。この記事では、これを発信できる範囲と呼びます。
実名は信頼を先に手に入れ、範囲を手放します。匿名は範囲を先に手に入れ、信頼を後から作ります。順番が逆になっているだけで、どちらかが劣っているわけではありません。
だから世に出ている実務の話は、成功例に偏る
発信できる範囲が制約されると、書かれる内容には偏りが生まれます。
たとえば、ある制度を社内で作った話が世に出るとき、たいてい導入して成果が出たという形になります。導入までに何度差し戻されたか、なぜ経営者が難色を示したか、どこを妥協したか。実務でいちばん学びのある部分は、書けないので落ちます。
読む側から見ると、これは困ります。同じ立場で同じ問題を抱えている人が知りたいのは、うまくいった結果ではなく、うまくいかなかった過程のほうだからです。
この領域には、供給する人がほとんどいません。書ける知識を持っている人は所属していて書けず、所属していない人はその知識を持っていないからです。
匿名で、現職のまま書ける人だけが、この空白に入れます。隠れるための匿名ではなく、入るための匿名です。
匿名が引き受けるのは、信頼をゼロから作る仕事である
とはいえ、匿名で書けば読まれるわけではありません。ここは正直に書いておきます。
実名の人は、所属と経歴が最初の信用として働きます。読む前に、この人は知っているはずだという推定が生まれる。匿名にはこれがありません。何者か分からない人が書いた文章として、まっさらな状態から読まれます。
だから匿名を選ぶということは、信頼を作る仕事を自分で引き受けるということです。肩書きが代行してくれていた部分を、自分の書くもので埋めなければなりません。
この仕事は時間がかかります。1本や2本では足りません。ここが匿名のいちばん重いコストです。
信頼は、肩書きではなく検証の量で作れる
ただ、肩書き以外に信頼を作る方法はあります。検証を積むという方法です。
肩書きが担保しているのは、この人は知っているはずだという推定です。同じ推定は、実際に確かめた記録の量からも作れます。何をどう試して、何が起きたか。日付があり、数字があり、途中経過があり、失敗も書いてある記録。これは肩書きより手間がかかりますが、肩書きより強く働きます。
理由は単純で、肩書きは推定にすぎませんが、記録は実物だからです。1年間続けた記録は、1年かけないと作れません。誰も追い越せません。
そしてこの方法は、匿名でしか成立しない場合があります。実名で書くなら、失敗した記録は出せないからです。
つまり、匿名は信頼を得にくいというより、匿名でしか使えない信頼の作り方がある、と考えたほうが正確だと思います。
匿名を選ぶコストを、正直に書いておく
ここまで匿名を擁護してきましたが、公平を期すために逆側も書きます。
まず、仕事の依頼は来にくくなります。企業は、誰か分からない相手と契約するのを避けます。監修、講演、書籍の企画。こうした話は実名の人に集まります。匿名のまま受けるには、法人を作るなど別の仕組みが要ります。
次に、立ち上がりが遅くなります。信頼をゼロから作るということは、しばらく誰にも読まれないということです。ここで辞める人が多く出ます。
そして、書く内容によっては、特定される危険が残ります。組織の話を具体的に書けば書くほど、業種と規模と時期の組み合わせから絞り込まれます。ここは技術で対処するしかありません。個別の事案としてではなく、判断の型として書くことです。何が起きたかではなく、どういう構造だったかを書けば、特定の材料は減り、読者にとっての汎用性はむしろ上がります。
なお、勤務先との関係で守秘義務の範囲に不安がある場合は、この記事の話ではありません。就業規則を確認するか、必要なら専門家に相談することを検討してみてください。
判断基準は、肩書きが情報の価値を上げるかどうか
実名か匿名かを決めるときに使える基準を、3つ渡します。
1つ目は、あなたの肩書きが、その情報の価値を上げるかどうかです。医師が健康について書く場合や、弁護士が法律について書く場合、肩書きは情報の一部です。この場合は実名が有利になります。逆に、内容そのもので判断される情報なら、肩書きは飾りにすぎません。
2つ目は、書きたいことの中に、所属先に不利なものが含まれるかどうかです。含まれるなら、実名では書けません。書けないものを避けて書き続けると、当たり障りのない内容だけが残ります。それは誰の役にも立ちません。
3つ目は、書くことで何を得たいかです。仕事の依頼が目的なら実名が近道です。書きたいことを書くのが目的なら、匿名のほうが射程は長くなります。
なお、匿名から実名への変更は後からできますが、逆は難しいという性質があります。迷っているなら、範囲を広く持てるほうから始めるのが安全だと思います。
よくある疑問
Q:匿名だと信頼されないので、稼げないのではないでしょうか。
A:信頼を作る手段が肩書きから記録に変わるだけで、信頼そのものが得られないわけではありません。ただし時間はかかります。肩書きは初対面で効きますが、記録は積み上がるまで効きません。すぐに成果が必要な状況なら、匿名は合っていない可能性があります。
Q:会社の話を書くのは、そもそも問題があるのではないでしょうか。
A:具体的な事案をそのまま書けば問題になります。書けるのは、事案から抽出した構造や判断の型です。何が起きたかを消し、どういう理屈でそう判断したかだけを残す。この処理をすれば、多くの場合は書けるものになりますし、読者にとっても使いやすくなります。
Q:仮名やペンネームを使えばいいのではないでしょうか。
A:それでよいと思います。この記事で扱っているのは、名前の形式ではなく、所属と発信が結びついているかどうかです。仮名でも、勤務先が特定できる形で書けば実名と同じ制約がかかります。逆に、所属が切れていれば、名前の形式は好みで選んで構いません。
発信の選択は、信頼の作り方ではなく書ける範囲で決める
匿名か実名かという問いは、たいてい信頼をどう得るかの話として扱われます。だから匿名は不利ということになり、仮名で折衷するという結論に落ち着きます。
けれど、実名を選んだ瞬間に手放しているものがあります。自社に不利なこと、失敗したこと、判断の裏側。実務でいちばん価値のある領域が、名前と所属が結びついた時点で書けなくなります。
だから匿名は、隠れるための選択ではありません。誰も供給していない領域に入るための選択です。その代わり、信頼は自分で作ることになります。肩書きの代わりに、確かめた記録を積む。時間はかかりますが、その記録は誰にも真似できません。
あなたが本当に書きたいことは、名前を出したまま書けるものでしょうか。
